自虐ギャグで貫かれた破壊フィルム 北野武監督作品 監督・ばんざい!

北野武監督作品として、第13作目に公開されたのが「監督・ばんざい!」である。2007年に上映され、わたしは映画館ではなく、レンタルDVDで視聴した。何かを追いかけ、時が経って振り返ってみると、その頃何をしていたのか、自然と思い出す。

 

「監督・ばんざい!」が上映された頃、わたしはすでに第二次独身時代であった。派遣社員であり、それ程給与がなくても、犬との暮らしには困っていなかった。だが、北野武監督から離れ始めた頃であり、「監督・ばんざい!」が最後に視聴した作品だった。今回、約10年ぶりに再視聴し、意外に楽しく見ることができた。

 

映画の内容は、監督である北野武の頭の中を覗く、と言えるだろう。

 

ヒット作に恵まれない映画監督である北野武は、脳の検査を受ける。それまでに思いついた作品が、お決まりのギャング映画や小津安二郎を模した家族映画、あるいは、恋愛映画などであった。しかし、どの作品も失敗作であり、どうしようか迷っていると、自身初であるSF映画を手がけることにした。詐欺師の母娘が主人公となり、ハチャメチャな展開が続いていく。

 
 

 
 

以上、大まかなストーリーであるが、初めて見た時、たけしらしいと思った。自虐的な内容で、テレビで見たようなギャグシーンが登場する。ブラック・ユーモアや下ネタ等もあり、笑いが出てきたことも確かだ。けれども、フェリーニを意識しているな、とも思い、今回見返した時でも、変わらぬ感想だ。

 

北野武監督自身、フェリーニがお気に入りのようだ。記憶の中の話で申し訳ないが、フェリーニの「8 1/2」を賞賛していたと思う。しかも、難しい映画ではなく意外に簡単なのでは、とも述べていた。

 

わたしも、学生の時に「8 1/2」を視聴した。作品を生み出すことに悩んでいた映画監督が主人公であり、「監督・ばんざい!」と似たような面がある。「8 1/2」では、いわば客観的な描写であり、フェリーニ自身を覗くという設定ではない。けれども、映画監督の頭の中身を見ているようであり、共通点がある。

 
 

 
 

そうは言っても、フェリーニの中にも感覚的な描写があり、独特な映像美を目にすることができる。「監督・ばんざい!」の場合、北野武監督のお笑いが反映され、自虐ギャグが満載である。こんなことを頭の中で描いているの?、とつい思ってしまうかもしれない。

 

しかし、お笑いが強いとはいえ、感覚映像満載ということでは、やはり「8 1/2」と似ている。マンガ雑誌を見ているような感じもあり、自身の影響がにじみ出ているのだろう。

 

遊びにふけっている少年が、空き地のドカンの上で少年マンガ誌を食い入るように読んでいる姿が、浮かんでくる。「監督・ばんざい!」の中に、古臭いロボットが出てくるが、これは北野武監督自身が読んだマンガの影響かもしれない。

 
 

 
 

聞いた話によれば、「TAKESHIS’」と同様、「監督・ばんざい!」も北野武監督自身が、悩んでいた時に制作されたようだ。海外では自身の作が受けるのに、国内ではあまり高評価を得ないというのが、主因のようだ。

 

もっとも、表現者というものは、ウソつきでなければ続けられないとも思っている。上記のことが本音なのかそうでないのか、わたしは判断しない。「ソナチネ」が典型的であるが、北野武監督作品は、日本で制作されても海外から輸入されるような感じがある。

 

これを「進んでいる進んでいない」という単純な二元論にはしたくない。時代の要請もあろうし、良質の作品というものは、時間の経過によって、評価されることもまた、これまでにあったことだ。

 
 

 
 

しかし、「ソナチネ」が公開され、「みんな~やってるか!」が制作され、バイク事故を引き起こしたことを鑑みれば、北野武監督の個人的な何かが、「監督・ばんざい!」に反映しているのかもしれない。

 

もしそうであれば、自身を曝け出し、まるで私小説家のようでもある。もっとも、先と矛盾するようであるが、表現者は自身を反映させなければ表現者とは言えないのかもしれない。ウソとは作り話を制作することであり、意味までウソというものではない。だからこそ、必ずしも売れた作品だけが、良好なものであるとは言えないのだろう。

 

自身をさらせば、感性を受け止められる人と受け止められない人ができる。訳の分からない作品に思えるのは、感性の違いとも見なせる。北野武監督作品には、そういうものが多々あるように思う。「監督・ばんざい!」も、感覚的な映画と言え、監督との感性はもちろん、自虐自体が合わない人には、好かれない作品かもしれない。

 
 

 
 

ともあれ、今回「監督・ばんざい!」を見返し、意外に感じたことは、あとからジワジワ来るということだ。見終わった後は、ふうんという感じでも、種々のシーンを思い出すと、つい吹き出したくなることもあれば、いつまでも離れないような感じもある。

 

たとえば、詐欺師の母娘は、登場からして印象的だ。ラーメン屋で二人がカメラに顔を向けているところから、映像に出て来る。一見すると、母娘なのかわからないような感じもし、そこもまた面白いところだ。

 

おそらく「監督・ばんざい!」は、「みんな~やってるか!」と同じような位置づけになろう。すなわち、破壊をキーワードにすれば、どちらもそれまでの作品を破壊しているようである。多弁を含めるのであれば、「菊次郎の夏」も同様になる。やはり、北野武監督は、破壊と建設の表現者、と思ってしまう。

 

だらだらと述べて来た割には、中身の薄いレビューとなった。わたしの場合、破壊にもならない破壊ばかりであり、建設がちっともできていない。少しは北野武監督に学んだ方がいいのだろうが、その器も備えていないのだろう。

 

今回は、これまでである。

 
 

 
 

 

兄弟の有り様と哀しい旋律 北野武監督作品 Brother

「Brother」が公開されたのは、2001年である。通算9作目の作品であり、アメリカが主要な舞台になっている。北野武監督作品の中では、初めての試みであったろう。

 

物語は、ビートたけし演じる山本が中心となっている。

 

山本はヤクザの幹部であり、抗争中であった。親分が殺され、敵を取るつもりだったが、兄弟分の原田が抗争相手の仁政会傘下に入ることで、事を済ませようとした。山本は寝返らず、原田の手助けでアメリカへ渡ることにした。半分血の繋がったケンの元へ行くが、薬の売人をし、ボスたちと揉めていた。遅れて駆けつけた弟分の加藤も仲間にし、アメリカでも薬の密売で抗争状態となった。そして、ついにマフィアと対決することになる。

 

以上、「Brother」の簡単な内容である。全体的に北野スタイルが健在であるが、アクションシーンもあり、エンターテイメント性も備えている。しかし、単なる娯楽映画にしていないのが、北野武監督でもある。

 
 

 
 

わたしは、公開当時、地元浦和の映画館で鑑賞した。その頃は連れがいたので、一緒に見に行った。連れはそれ程でもなかったが、わたしは非常に楽しむことができた。今回見返しても変わらないことであり、むしろより堪能できた。他の記事でも述べているが、映画のような作品の評価は、受け手の変化によっても異なって来る。

 

確かに、相変わらずヤクザを登場させ、彼らの生き死を描いている。舞台が日本ではなく、アメリカだけの違いであり、従来の北野武監督作品と変わり映えがしない。どこかしら「ソナチネ」に似ている雰囲気があり、北野武監督自身、逃げる死を描いた作品として「ソナチネ」と共に「Brother」を挙げている。

 

けれども、「Brother」には、「ソナチネ」で見られない様々な人の姿がある。「ソナチネ」では1人の死にスポットが当てられていたが、「Brother」では複数の死が扱われている。そこに兄弟というとスパイスが与えられ、それぞれの死がクローズアップされている。

 
 

 
 

わたしが見たところ、山本は、三つの兄弟を抱えている。一つ目はヤクザの兄弟である。二つ目は半分血の繋がった兄弟であり、三つ目が異人種間の兄弟である。それぞれ表面上は変わっているが、内面上のつながりは同じようだ。義理人情というと、陳腐な感じになる。そうではなく、人として持ってしまう情けの有り様を感じる。

 

一定期間、人と人が時間を共有すれば、自分を満たすのみでなく、相手を救うために自己をも捨てる。ストックホルム症候群も、似たような傾向から来ているのかもしれない。これを「Brother」に当てはめれば、格好つけ過ぎ、との評もあろう。わたしもそのように思う。しかし、多くの人が、心の底では、自分のみでなく他者を手助けしたい、という気持ちがあるかもしれない。

 

結局は自己満足かもしれず、真の意味で他者を考えていないとも言える。そうであっても、人が社会を営むということは、そういう自己と他者の関係がなければ、築けないのではなかろうか。これは社会人の有り方云々の前に、必然的に出て来るもののように思う。

 
 

 
 

また、「Brother」のバックグラウンド・ミュージックも、特筆できる。非常に哀しい旋律であり、山本とその仲間の運命を暗示しているようだ。見た限り、北野武監督作品は音楽が素晴らしい。映画は総合芸術であり、音楽が重要な要素になっていることをよく理解していると思う。

 

だからこそ「Brother」もまた、絶望の映画である。山本たちの栄光と挫折が表現された物語であり、別な言葉にすれば、バカな男たちのストーリーかもしれない。むしろそうであるから余計哀しい。

 

しかし、絶望の中にも分かり易い救いが描かれている。同じ絶望を映していた「その男、凶暴につき」とは大きく異なる。山本がデニーに託したことが、それである。もしこれがなければ、哀しいのみで何も残らない映画になっていたかもしれない。これが北野武監督の弱さでもあり、大衆向けテレビに出続けられる力量でもあるのだろう。その点が物足りない部分であり、評価を下げてしまう点かもしれない。

 
 

 
 

そう言えば、日本人が分かりにくいというセリフが使われていた。お決まりのようでもあり、古臭い感じがある。おそらく意図的に使ったものであろう。しかし、現在は、インターネットや交通手段が発達し、誤解が少なくなった部分もある。

 

しかも、意外に日本は良い、と思っている日本人も増えているように感じる。「Brother」の欠点と言われれば、これも指摘できる。しかし、あくまで誤解が少なくなっただけであり、グローバリズムが進んでも異文化同士が全てを理解し合うことはできないだろう。

 

理念がつながれば、と思えるが、理念の解釈が異なれば、近親憎悪のように激しい対立も生まれやすい。完全には無理だ、という程度の方が争いも少なくなるような気がする。

 
 

 
 

このように言うと、山本たちのつながりと矛盾しているようであるが、完全には通じ合っていないだろう。むしろ、完全ではないからこそ情けで通じ合えたとも言える。少々屁理屈に聞こえたのであれば、人はあくまで主観的な生き物、とお答えしておく。(笑)

 

いずれにせよ、北野武監督作品の中でも、「Brother」はかなり好きな方であり、公開当時も同様だった。ある意味、希望と先人への鎮魂をも感じられる。巨大なアメリカとの敵対。誤解を恐れずに言えば、今の日本人に果たして、そんなことができるだろうか?

 

相変わらず、まとまりのないレビューとなった。今回はこれまでである。

 
 

 
 

 

欲望と妄想が続く、お笑いフィルム 北野武監督作品 みんな~やってるか!

海外では北野武監督、国内ではビートたけし監督名義で、1995年に公開されたのが「みんな~やってるか!」である。コメディ映画の一種であり、個人的にはお笑いフィルムと呼んでいる。欲望と妄想に基づいた、たけしらしいギャグが連続している。

 

ストーリーは、ダンカン演じる朝男を中心に展開されて行く。

 

朝男は、女にモテたいという願望があり、車を購入した。ナンパをしたが成功せず、どうしようか迷っていると、ファースト・クラスの機内サービスを目当てに、銀行強盗を働く。現金輸送車も襲うが成功せず、そのうちヤクザの抗争に巻き込まれる。そして、透明人間からハエ男となり、地球防衛軍の標的となってしまう。

 
 

 
 

以上、大まかな内容であるが、お笑いフィルムであるので、全体的には軽めのトーンである。肩肘張らずに見ることができるが、下ネタが続くこともあり、中には嫌になってしまう人もいるかもしれない。

 

わたしは、公開当時学生であった。すでに映画に興味があり、「みんな~やってるか!」が上映されることは知っていた。しかし、映画館に赴く機会がなく、レンタルビデオで初めて目にした。記憶の中では、ロンドン映画祭に出品されたとのことで、見終わった後の感想が、これを出したの?!、というものだった。

 

ギャグも、いかにもたけしらしいと言えるだろう。下ネタが続くが、ブラック・ユーモアもある。たけし軍団が登場し、テレビで見たようなシーンもある。妄想が妄想を呼び、しまいには突拍子もない展開となり、ナンセンス・ギャグの要素も加味されている。けれども、ギャグの連続は問題ないだろうが、下ネタばかり繋げられていると、飽きてしまうことも否めない。ラストまで少し長く感じられたことも確かだ。

 
 

 
 

しかし、先日見返すと、意外に楽しむことができた。よくよく見れば、これは一種のパロディ映画である。たとえば、地球防衛軍が登場する。「ウルトラマン」のファンであれば、ご存知のことだろう。また、「モスラ」のパロディも登場する。さらに、北野武監督らしくヤクザも出て来る。「唐獅子牡丹」が流れるシーンは、かつての任侠映画を思い出させる。

 

今思うことは、映画はさることながら、ドラマでも小説でも、あるいはマンガでも、受け手の変化などで楽しめる作品もある。もちろん、逆の場合もあり、どうしてあんなに夢中になっていたんだろうか?、と疑問に思うこともある。わたしの例であれば、「オレたちひょうきん族」が典型的であり、「8時だヨ!全員集合」のコントとは違い、以前のようには笑えなくなっている。

 

もしかすると、作品というものは、ある程度の時間がなければ冷静に嗜むことができないのかもしれない。宮沢賢治が良い例えかもしれないが、死後になって評価されることもある。中には大げさに感じる人もいるだろう。けれども、「みんな~やってるか!」は時間が経つことで、より評価される可能性がある。それは、北野スタイルを感じることもできるからだ。

 
 

 
 

たとえば、妄想の連続は、後年の「Takeshis」や「監督、バンザイ!」でも使われている。余計なものを削ぎ落としたシーンもあり、寡黙な「HANA-BI」などにも通じる。また、音楽がユニークである。敢えてオリジナル歌手を使わなかったようで、そこが返って、笑いにつながっている。

 

そう言えば、北野武監督は、映画のストーリーも漫才のネタを考えることと同じだ、と発言していた。悲劇を作るのが上手い人は、喜劇を作るのも上手い。底の部分には、共通しているものがあるのだろう。

 

ただし、監督本人は、「みんな~やってるか!」をあまり評価していないようだ。映画の破壊を狙ったが失敗だっとのことだが、確かに、妄想の連続は、「Takeshis」や「監督、バンザイ!」の方が無茶苦茶かもしれない。「みんな~やってるか!」も同様に見えるが、理がつながっている感もある。その点が、完全なナンセンス・ギャグ映画とは言えない部分かもしれない。

 
 

 
 

しかし、公開当時、淀川長治だけは、お笑いロード・ムービーと評し、高評価を与えていた。サイレント時代に妄想に基づくコメディ映画があり、それに通じるとのことだ。先に時間の経過によって評価が変わる可能性があると述べたが、リアルタイムできちんと評している人もいたということだ。

 

いずれにせよ、「みんな~やってるか!」は気楽に視聴できる映画である。以前は、北野武監督作品の中では異色では?、と思っていたが、改めて見返してみると、そうは思えなくなった。

 

わたし自身もまた、心の有り様などが変化しているのかもしれない。

 
 

 
 

 

スタイルの原型が覗える感覚的映画 北野武監督作品 3-4X10月

北野武監督が脚本とメガホンを務めた最初の作品が、「3-4X10月」である。当初読み方は、「さんたいよんかけるじゅうがつ」であると思っていたが、正確には「さんたいよんえっくすじゅうがつ」であるそうだ。公開が1990年であり、監督一作目の「その男、凶暴につき」の高評価により、二作目が撮れたとも言える。

 

物語は、柳ユーレイ演じる雅樹を中心に展開する。

 

雅樹は草野球チームの一員であるが、ほとんど野球を知らない。三塁コーチをしても指示を出せず、ホームランを打っても先のランナーを追い越し、負け試合を演出してしまう。そんな雅樹はガソリンスタンドの店員であるが、引き継ぎ業務を理解できず、大友組のヤクザとトラブルになってしまう。

 

草野球チームの監督でスナック経営者の隆志(ガダルカナル・タカ)は、元大友組に属し、直談判に事務所へ行く。丸く収まる訳もなく、雅樹はチーム仲間の和男(ダンカン)と共に、拳銃を入手するため、沖縄へ飛んだ。

 
 

 
 

以上、「3-4X10月」の大雑把な内容である。全体的には静かな映画であり、淡々とした描写が続くので、退屈に感じてしまう人もいるだろう。

 

公開当時、わたしは、「その男、凶暴につき」と同様、浪人生であり、映画館では見なかった。テレビで視聴した記憶もなく、学生になってからレンタルビデオで借りたのが、初めてだった。見終わった後、不思議な感覚がし、良し悪しなどを超えていたように感じた。先日見返した時でも同じようであり、頭で理解しようとすれば、掴みきれない作品かもしれない。

 

これを鑑みれば、「3-4X10月」は、感覚的映画と言える。熱狂的ファンがどのように思うか分からないが、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」に似たようなところがある。映画やドラマなどには、人それぞれの好みがある。人の関係と同じように、合う合わない作品がある。

 

「3-4X10月」は、まさに合う人には合い、合わない人には合わず、決して大衆向き作品とは言えないだろう。変な表現だが、北野武監督の体液を感じる。

 
 

 
 

むしろ、そうであるからこそ、今から見れば、北野スタイルの原型と言えるものがある。いや、もしかしたらすでに出来上がり、現在も変わっていないのかもしれない。突発的暴力と独特の間合いによる表現は、「3-4X10月」の中にも覗える。動と静の巧みな組み合わせは、「ソナチネ」や「HANA-BI」などにも通じている。

 

また、たけし軍団を使い、テレビ番組で何度も見たような笑いのシーンも出て来る。これは「菊次郎の夏」に通じるものであり、北野スタイルのスパイスのようにもなっている。もっとも、小津映画や黒澤作品等にも笑いが出てくるため、笑いはスパイス以上の何かがあるとも見なせる。

 

さらに、「3-4X10月」はトイレで始まり、トイレで終わる。語られていることが夢であるのか現であるのか、ウヤムヤな感じがある。これは、「Takeshis」や「監督!バンザイ」のような作品にも呼応している。感覚的映画の名に相応しい表現方法であるかもしれない。

 

もしかすると、「3-4X10月」は北野武監督作品を理解する上で、意外に重要な位置をしめているのかもしれない。感覚的な作品こそ、作り手そのものがにじみ出て来るものだろう。

 

「3-4X10月」は、北野武監督の体液による映画。やはりこれでしか、言い表せない。

 
 

 
 

 

突発的暴力表現の先駆け 北野武監督作品 その男、凶暴につき

北野武監督の第一作目が、「その男、凶暴につき」である。1989年に公開され、ヨコハマ映画祭の監督賞を受賞している。現在とは異なり、脚本を手掛けてはいないが、今日に通じるような映像を見ることもできる。

 

映画は、ビートたけし演じる我妻刑事を中心に、物語が展開されて行く。

 

我妻は、凶悪犯を追いかける敏腕刑事であるが、逸脱した手法で犯人を捕まえる。ホームレスに暴力を奮った少年を自宅まで追い、力で出頭を促す。ヒモの男が、署内で逆ギレすれば、これも力で黙らせる。さらに、薬物中毒の男を追跡し、車で轢いた後、何度も蹴り上げた。本能のままと言える刑事だ。そんな我妻が、大規模な覚醒剤密売ルートを捜査し、同僚である岩城刑事の噂を耳にする。そうして、裏組織を仕切る実業家や殺し屋などと対決する。

 
 

 
 

以上、大雑把な内容であるが、全体的に見れば、タイトル通り「凶暴な男」の物語であろう。我妻刑事が象徴するように、暴力と切っても切れない関係にある。けれども、彼の最大の敵である清弘もまた「凶暴な男」であり、攻撃的な面を表に出さなくても「凶暴な男」が登場している。その男、ではなく、その男たち、というのが正確かもしれない。

 

そういう面があるからだろう。簡単に言えば、絶望の映画でもある。暴力が再生産され、どこで終わるのかが見えない。人の負の部分をこれでもかこれでもか、と表現している。だからこそ結果的に、主演ビートたけし、監督北野武であることが、最も適切だったのかもしれない。

 

もし救いを見出すのであれば、我妻が妹思いの点である。むしろ、そうであるからこそ、ラストへつながるシーンが出てきたとも言える。皮肉な救い方でもあろうが、これもまた、生死を踏まえた人の負の行為でもあろう。

 
 

 
 

「その男、凶暴につき」が公開された時、わたしは浪人生だった。高校生の時に、映画の面白さを感じ、何度か映画館へは行った。しかし、本格的に夢中になったのは、学生になってからであり、浪人生の頃では、当然受験が第一だった。けれども、「その男、凶暴につき」はテレビで放映され、学習の合間に視聴した。

 

まだまだ多感だったとも言えるだろう。ストーリー云々よりも暴力シーンに圧倒され、さすがたけし、と素直に思った。特に冒頭シーンが印象に残った。少年たちが公園で食事中のホームレスを襲撃する。最初はからかうような暴力であったが、だんだんエスカレートし、ついには、うつ伏せになったホームレスを、背中から自転車で叩きつけた。

 
 

 
 

些細な事が喧嘩に結びつくように、からかいの暴力も、時に最高潮に達してしまう。この点に、未熟なわたしでもリアルさを感じた。そして、全体的に緊張感があり、「突発的暴力表現」がいつ出るのか、ドキドキしながらラストまで見てしまった。

 

学生になった時、映画好きの友人が出来た。彼から小津安二郎や黒澤明を学び、おそらく彼には北野武を伝えられたと思う。なかなかだよ、との言葉を聞いた。映画に夢中になってから、「その男、凶暴につき」を見直した。すると、先のテレビではカットされていたシーンが、いくつかあった。

 

特に残念だったのは、ラストにつながる工場のシーンで、重要なセリフが削除されていたことだ。テレビは大衆向けであるので、仕方ない面があるのだろう。もし視聴していないのであれば、DVDあるいはブルーレイ・ディスクをオススメしたい。

 
 

 
 

ところで、先でも少し触れているが、「その男、凶暴につき」は「突発的暴力表現」の映画でもある。言い換えれば、突然の暴力シーンがあり、緊張感漂う作品でもある。わたしの記憶では、おそらく「突発的暴力表現」の先駆けは、まさにこの映画であったろう。

 

後年、タランティーノの「パルプ・フィクション」が公開され、以降「突発的暴力表現」が流行りのようになった。今では、当たり前のようにアクション映画などでも使われているが、「パルプ・フィクション」が大きな影響を与えたように見える。しかし、すでにお分かもしれないが、「パルプ・フィクション」は1994年に上映され、時間からすれば、「その男、凶暴につき」の方が5年も早い。

 

このように考えられるのも、「パルプ・フィクション」が、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞したからだろう。「その男、凶暴につき」は日本発の賞を取ったとはいえ、海外ではあまり知られることがなかったかもしれない。ただし、タランティーノは、映画オタクのような監督であり、日本の任侠映画などをよく知っているようだ。もしかしたら「その男、凶暴につき」も視聴し、表現方法を学んでいたのかもしれない。

 
 

 
 

また、突発的暴力というと、理由がないように見える。確かに被害者においては、その通りであろう。しかし、加害者においては、しっかり理由付けがなされていることもある。突発的暴力に至るまでに心の中で様々な葛藤をしている。それに耐えきれなくなり、暴力に訴えてしまう。「キレる」もまさに、これに近いようなことだろう。

 

突発的暴力を避けるには、そういう葛藤を理解できればいいのであろうが、果たしてそこまで人が人の心を読めるだろうか? 優秀な心理学者であれば、それが可能であろうか? 結局は対処療法をしっかりしておく以外、防止方法はないのではなかろうか? 突発的暴力を正当化している訳ではないが、こんなことも思っている。

 

やはり、人は主観的な生き物である。それが強さでもあり、弱さでもある。「その男、凶暴につき」とは関係ないように見えるが、わたしには、そう感じられてしまう。

 

だらだらと中身の薄いレビューを書いてきたが、今回はこれまでである。ここまでお読みいただけたのであれば、作成者冥利に尽き、大変有難いことである。