ボクシングと破壊と建設と 北野武監督作品 キッズ・リターン

「キッズ・リターン」は、1996年に公開された北野武監督作品である。バイク事故復帰後の第一作目であり、当時注目が集まっていたことを覚えている。映画館で見た記憶はなく、お決まりのようにレンタルビデオだった。しかし、たまたま古本屋でパンフレットを見つけ、即座に購入した。それだけ、わたしの心にも深く印象に残っていた映画である。

 
 

 
 

物語は、高校の同級生であるシンジとマサルが中心である。二人共、好き放題に生活し、学校に来ても、授業には出席せず、教師をからかったり、屋上でタバコを吸ったりしている。時に、マサルが街でカツアゲをし、遊び金を手に入れた。しかし、ある日、カツアゲした相手の知り合いに、仕返しされた。彼はボクサーであり、マサルがあっという間に倒されてしまった。

 

翌日からマサルが学校へ行かなくなった。シンジが心配していると、マサルが放課後に学校へ来た。ボクシングを始めたとのことで、シンジもジムに入門することになった。そうして、二人は、同じ道を歩もうとし、様々な出来事が起こって行く。

 

以上、シンジとマサルを中心とした、あらすじだが、彼ら以外の物語も、挿入されている。いずれも同級生たちの話であり、様々な一面を伺える。複数の話が一つの映画の中で描かれているのは、後年の「Dolls」と似ている。けれども、「Dolls」の場合、関連性が薄かったが、「キッズ・リターン」では、全員が同じ高校の同級生である。

 

いわば、同じ卵から生まれた雛がそれぞれの物語を歩み、「Dolls」とは間逆であろう。そうは言っても、北野武らしい現実の厳しさや残酷さなどが描かれ、単なる青春映画ではない。

 

それを象徴しているのが、ボクシングだ。北野武監督自身、若かりし頃は、ボクサーを目指していたようで、画面の端々から肩入れしていることが伺える。雑居ビルにあるジムでの練習風景、勝つための際どい技術などは、経験者ならではの演出かもしれない。

 
 

 
 

実はわたしの次兄が、中学の時にボクシングジムに通ったことがある。一度だけジムの外から練習風景を見たことがあり、使い古されたサンドバッグに向かって、彼がひたすら打ち込んでいた。つい矢吹丈の姿が重なり、わたしは憧れていた。いつかは自分も、と思い、学生になり、体同連ボクシング部に入部した。3回生で引退する部であったが、2回生から始め、実質1年程の経験だった。

 

それでも、ボクシングジム独特の汗臭さなどは、忘れられない。初めてのスパーリングでは、分けが分からず、先輩に一方的に打ち込まれた。「キッズ・リターン」の中でも、そういう場面が出て来る。教えを請うても、実にあっさりしたもので、映画の中でもジャブの教えが、その通りに描かれていた。個人的なことであるが、これではダメだ、と思い、次兄と練習することにした。

 

ボクシング部の先輩よりも、実になったことは確かだった。勝負の付かない練習試合だけ出場したが、一方的に打ち込まれることはなく、それなりに対処できた。以後、運動はダメだ、と思っていたが、他のスポーツにも興味を持つようになった。

 

サッカーやラグビー、あるいは、オリンピックの試合などをきちんと見るようになったのは、この頃からだ。後年、総合格闘技にも夢中になったことがあるが、ボクシングの経験が大きく影響していた。

 
 

 
 

上記のようなことがあったため、「キッズ・リターン」と言えば、ボクシングを連想する。しかも、印象に残っているシーンと言えば、とりわけ、シンジが練習でカウンターを取る場面である。リアルさを感じられるので、さすが北野武、と思ってしまった。

 

けれども、ボクシングを続け、しかもチャンピオンになることは、決して甘いものではない。才能の有無もそうだが、何より精神力を保つことが重要である。シンジはまさに、それを証明してしまった。これも現実であろう。

 

また、「キッズ・リターン」を一言にすれば、バカたちの物語である。シンジとマサルも然り、他の同級生たちもそうである。特に焦点が当てられているシンジとマサルは、一旦は立場が逆になる。ボクシングでは、シンジの方がマサルよりも強かった。けれども、マサルは自分の道を諦めず、ヤクザの道へ進むことになる。

 

ある程度のところまで、マサルは上り詰めるが、結局は挫折してしまう。ヤクザ特有の流儀に背いたかもしれないが、マサルは組を離れることになる。シンジもまた、ボクシングを止め、久しぶりに二人が再び会うことになった。順序が逆だが、映画の始まりは、二人の再会シーンからだった。

 
 

 
 

シンジもマサルも、弱いと言えば、それまでである。特にシンジは、ジムのだらしない先輩に誘惑され、酒を飲むようになり、だらけた生活へ逆戻りしてしまった。将来を嘱望されながらも、自分から逃げてしまったことと一緒だった。

 

欲望に負けたとも言えるが、ボクシングで強くなりたいことも欲望ならば、欲望の方向が変わったとも言えるだろう。それが誘惑というところに、高校生の少年がメインキャラクターとはいえ、人そのものの弱さを感じることができる。

 

しかし、それでも、人は何かを見つけようとするかもしれない。たとえバカであっても、そうしなければ、生きて行くことはできないのかもしれない。いや、生きるとはそういうものかもしれない。ネタバレになるだろうが、「キッズ・リターン」は最後のセリフが、すべてを物語っているようだ。

 

久しぶりに母校の校庭で、シンジとマサルが二人乗りをしている。

「マァちゃん、おれたちもう終わっちゃたのかな?」
「バカヤロ。まだ始まっちゃいねえよ!!」

 
 

 
 

見終わった後、わたしは、ふと宮沢賢治を思い浮かべた。有名な「雨ニモ負ケズ」の言葉が浮かび上がり、なるほどな、と思ってしまった。このレビューは、改めて視聴した後、作成しているが、初めて見た時も、今回も同じように思った。「雨ニモ負ケズ」ではデクノボーであり、しかも、人の役に立ちたいことが書かれている。

 

一方、「キッズ・リターン」では、先述しているように、バカの物語である。バカもデクノボーも似ているが、「キッズ・リターン」では、個人的な要素が強い。シンジやマサルそれぞれ自身が、それぞれのために生きているようである。けれども、人のためでも自分のためでも、方向は異なるが、根は同じようなものかもしれない。

 

何かが建設されれば、それを破壊し、そうして新たに建設し、また破壊をする。同じようなことを繰り返しながらも、少しずつ進み、回帰していく。どんな困難があろうと、めげずに前へ進み、何かを作り上げようとする。繰り返すようであるが、生きていくとはそのようなことに感じる。

 

やはり、バイク事故復帰後第一作目であり、北野武監督自身の経験も色濃く反映されているかもしれない。事故によって、危機を脱し、再び生きていくことになった。それまでのものを破壊したようであり、新たに建設していく。愚かなことをしながらも、また愚かなように前に進んで行く。もしかしたら、そんなようなことが含められているのかもしれない。

 
 

 
 

さらに、上記で述べた「破壊と建設」の物語は、音楽と非常にマッチしている。テンポの良い単調な旋律であり、「ソナチネ」などと同様、久石譲が担当している。見返した今回でも、初めて見た時でも、大いに元気が出て来た。冷静に見れば、失敗者たちの物語である。今風に言えば、負け組のストーリーかもしれない。それでも前を向いて行こうとし、音楽がその心情を端的に語っているようでもある。

 

もしかしたら、北野武監督作品の中で、「ソナチネ」に次ぐ人気作かもしれない。天才が登場することもなく、より身近に感じられるキャラクターである。多くの人が挫折し、成功者は一握りである。むしろ、格差社会などと言われている現在にこそ、共感する人が多いかもしれない。

 

わたし自身も、決して成功者とは言えず、「破壊と建設」ばかりである。現在、北野武に回帰することができ、良い年をしながらも、再び建設が始まるかもしれない。だからこそ、「キッズ・リターン」を見て、余計に勇気が湧いてきた。同時に、たとえ負け組であろうと、意地だけは持っていたい。福沢諭吉の「痩せ我慢の説」にも通じるように思うが、的はずれな物言いだろうか?

 

いずれにせよ、「キッズ・リターン」は、バカたちの物語であっても、元気や勇気が湧いて来る。自分の身近に感じられるキャラクターでもあり、純粋に楽しめるヒューマンドラマでもある。

 

舌足らずで、中身の薄いレビューだが、今回は以上である。

 
 

 
 

音声レビューもアップしました。こちらもご覧いただければ幸いです。

2017年5月26日

 
 

 

多弁の向こうを感じさせる家族映画 北野武監督作品 菊次郎の夏

「菊次郎の夏」は、1999年に上映され、カンヌ映画祭に正式出品された。前作の「HANA-BI」がベネチア映画祭で金獅子賞を受賞したため、大きな注目を集めていた。

 

しかし、そういう時だからこそ、ひねくれたことをするのが、北野武監督なのかもしれない。「HANA-BI」まで寡黙が特徴とされていたため、多弁な映画の制作を表明していた。「菊次郎の夏」は、まさに北野風多弁フィルムでもある。

 

物語は、東京浅草から始まる。小学生の正男は、祖母と二人暮らしで、父を事故で亡くし、母が出稼ぎ中とされている。夏休みに入っても、どこへも行けず、一人で母のいる豊橋まで向かおうとした。しかし、少年たちに捕まり、金を巻き上げられそうになったが、祖母と仲の良い、近所のおばさんに助けられた。事情を知ったおばさんは、旦那の菊次郎を同行させた。豊橋と浅草の道中で、様々な出来事が起こって行く。

 
 

 
 

以上、「菊次郎の夏」の簡単なあらすじである。先でも触れているが、菊次郎は一貫して多弁である。言い換えれば、無駄口の多い男であり、むしろ多弁によって、自分の心を誤魔化しているような面もある。世間から見れば、ヒモのチンピラであり、どうしようもない男であることは確かだろう。

 

だが、正男と旅することで、菊次郎が少しずつ成長しているように感じる。たとえば、正男の母の実情を知った時、菊次郎はどうにか正男をなだめようとする。浜辺で正男がうなだれていたが、浅草へ帰ることをうながした。そして、正男と手をつなぎ、まるで父親のような表情をする。

 

さらに、物語の後半で、菊次郎は老人ホームで生活している母を訪ねる。職員から対面するかと聞かれたが断り、遠目から見るだけにした。周囲と溶け込めない母の姿が描かれ、菊次郎の複雑な心境がどことなく感じられる。おそらく菊次郎と正男は、共通点を持っているのだろう。生きている母がいるのに、話すことができないというジレンマだ。

 
 

 
 

仮に死んでしまっているのであれば、諦めも付くだろう。それができないことに、もどかしさがあり、イライラもある。けれども、そういう仕方ないことを引き受けるのも、おそらく大人の責任でもあるだろう。菊次郎は遅ればせながら自覚し、正男はまだまだこれからだ。物語の半ばで、菊次郎と正男が田舎のバスを宿代わりにし、正男が菊次郎の側で眠った。菊次郎がポツリと言う。

 

「この子も、おれとおんなじか」

 

菊次郎は、正男の姿を見ることで、自分を振り返ることもでき、彼なりに何とかしようと心を改めているのかもしれない。

 
 

 
 

ところで、「菊次郎の夏」も、封切り時に鑑賞した。地元浦和の映画館で、観客もそれなりに来ていた。当時もそして今も、やはりわたしのような者には、小津安二郎を連想させ、ロードムービーとの印象も変わっていない。しかも、ビートたけし名義で監督した「みんな~やってるか!」と似たような感じもした。

 

テレビのお笑い番組で出るようなギャグ・シーンもあり、これでカンヌに出品したのか、と驚いた。さらに、家族映画の一つでもある、という認識も持った。現代にマッチしたようなもので、正男が祖母といながらも、父母がいないため、実質は核家族である。鍵っ子のような立場であり、現代では当たり前のような風景かもしれない。

 

しかし、当時ではあまり感じなかったが、今回改めて、菊次郎と正男が「親子」になっている、と思った。血の繋がりもなく、近所に住んでいるとはいえ、赤の他人である。それでも、「親子」になってしまうところに、個人的な経験がオーバーラップしてしまった。

 
 

 
 

映画やドラマを観賞すると、個人的な経験などが連想されがちである。「菊次郎の夏」でも同様であり、むしろ、現在の方が強くなっているかもしれない。正直、わたしも血の繋がりのない子供たちと暮らしたことがあり、正男のように少し太っていた男の子がいた。封切り時、正男に似ている、と当時の妻が言っていたことを思い出した。

 

「菊次郎の夏」の中で、ホテルのプールで遊ぶシーンがある。菊次郎と正男は、同じような格好をし、まるで「親子」のようになっていた。わたしは、同じような野球帽を被り、電車に乗ったことがある。座席の乗客がにこやかな表情で、こちらを見ていたことを覚えている。皮肉なことに、今の方が「親」であったという自覚が強くなっている。

 

子供を持つ前に、親になることを学んだ方が良い、と耳にすることもある。しかし、何事も計画的には行かない。もしかしたら、多くの人が子供を持って始めて親になるのだろう。そうして、子供とともに親としての成長を遂げて行く。穿った見方だろうが、「菊次郎の夏」には、そういうことも含まれているのかもしれない。

 
 

 
 

また、「菊次郎の夏」も、音楽効果が素晴らしい。「HANA-BI」と同様、久石譲の制作であり、単調でアップテンポな曲が、映像とマッチしている。歌詞はないが、旋律がいつでも頭の中に浮かんで来る。これだけでも「菊次郎の夏」を見る価値があるかもしれない。

 

こうまで言うと、あまりにも褒め過ぎであろう。欠点を指摘するのであれば、少々クサイ話でもある。さらに、ギャグがありふれた感じであり、突拍子もない笑いではない。おそらく映画に見合った笑いを作り上げたのであり、計算上であろうとは思っている。しかし、物足りないと感じる観客がいるのでは、とも思う。

 
 

 
 
そうは言っても、全体的には、北野流スタイルが貫かれている。価値のある映画、という考えに変わりはない。

 

長くなった。相変わらず中身の薄いレビューであるが、最後までお読みいただけたのであれば、誠にうれしい限りである。今回はこれまで。

 
 

 
 

 

妻の姿に子が宿る 北野武監督作品 HANA-BI

1997年のベネチア映画祭金獅子賞となったのが「HANA-BI」である。「無法松の一生」以来、約40年ぶりの快挙であり、マスメディアでも大いに話題になっていた。日本で公開されたのは、翌1998年である。わたしは、銀座の映画館で鑑賞し、非常に心を動かされた思い出がある。

 

わたしの映画を選ぶ基本は、監督に重きを置いている。好きな女優などを基準にすることもあるが、一種の好みの問題であり、作品内容云々とは関係ない。このため、映画祭の受賞作品を重視していることもない。正直なことを言えば、とりわけ、アカデミー賞を受賞した作品には、なにやらキナ臭さを感じることもあり、あまり信用していない。(笑)

 
 

 
 

けれども、「HANA-BI」に関しては違った。ベネチア映画祭金獅子賞という名にふさわしい作品であり、後にも先にも、そのように思ったは、「HANA-BI」だけだ。

 

そんな「HANA-BI」を見返し、感想は映画館で初めて鑑賞した時とほとんど変わらなかった。なかなか言葉が出て来ないが、非常に心地よかった。「Dolls」鑑賞後のジワジワ感と違い、見終わった後でも心が動いている。そうでありながらも、言葉が出ない。もしかすると、あまりにも悲しいことがあると、言葉にならないことと同じようであったのかもしれない。

 

物語は、西元刑事と妻の美幸が中心である。二人の間には幼い子どもがいたが、事故で亡くしてしまい、以来、美幸が話をしなくなる。折しも、凶悪犯の銃弾によって、同僚の堀部が重傷を負い、部下の田中が死亡する。西は決意を固めたかのように行動し、そして、妻とともに旅に出る。

 
 

 
 

以上が「HANA-BI」の大まかなストーリーである。全体的にまとまりがあり、北野武監督作品らしい緊張感も漂っている。そうは言いながらも、随所に笑いも散りばめられ、見ている人を飽きさせない。そして、西が寡黙であり、そうであるからこそ、彼の決意がより一層際立っている。有言実行ではなく、不言実行の男ともいえ、そうであるからこそ、怖さも感じる。

 

しかし、今回改めて見た時、妻の美幸が非常に印象的だった。とりわけ、西と共に旅をしている姿が、美しいというよりも、可愛らしかった。キャンピングカーの前で、想像上の打ち上げ花火に目をやるシーンには、思わず見とれてしまう。あどけない感じもし、もしかしたら、亡くした子供の姿が重なっているのかもしれない。そして、最後の最後に美幸がようやく口を開く。全てが集約されているようで、ついつい涙腺が緩んでしまった。

 
 

 
 

また、今回気づいたことでは、キタノブルーは部分的に使われていることだ。記憶では、全体的に青みがかっていると思ったが、基点となるような場面で使われている。特に暴力シーンで目立っていると思う。さらに、「HANA-BI」を際立たせているのが、音楽である。「ソナチネ」などと同様、久石譲が手がけたもので、単調な音色が映像と見事にマッチしている。映画における音楽の効果が、ここでも見て取れると言えよう。

 
 

 
 

あまりにも褒め過ぎかもしれないが、わたしにとって、「HANA-BI」は火の付け所がない。初めて見た時も同じであり、良質の映画には、時が関係ないことを、またも感じてしまった。もしアラを探すのであれば、回想シーンへ至る場面がわかりにくいことと、西が格好良すぎることだろう。けれども、そういう点を補ってくれる程、全体的に見れば、非常に優れた作品であると思う。

 

ところで、「HANA-BI」には、個人的なエピソードがある。冒頭で、銀座の映画館で鑑賞したと話した。初日の2回目であり、舞台挨拶は見なかった。けれども、当時、元妻とその子と暮らし、仕事を終えた後、元妻に誘われて見に行った。わたしは子供の夕食は問題ないと聞いていたので、喜んで行ったが、帰ってみれば、子供が不機嫌だった。夕食の用意がなく、カップラーメンで凌いだとのことだった。わたしたちは外食で、子供はカップラーメン。善人ぶるつもりはなかったが、元妻を叱った記憶がある。

 
 

 
 

こんなエピソードを自分のサイトで披露するとは、思いもしなかった(笑)。すでに別れ別れになり、長い年月が経過しているが、「HANA-BI」は、自分の過去をも描かれているように思ってしまう。言ってみれば、西と堀部の両方を生きてしまった感がある。具体的なことは、あまりにも話がそれるのでここで終りにするが、こういう点でも「HANA-BI」は忘れられない映画ともなっている。

 

いずれにせよ、「HANA-BI」は、金獅子賞の名に相応しい映画である。「ソナチネ」が北野武監督作品の中で最高峰であることに変わりはないが、「HANA-BI」もそれに匹敵するのでは、と今では思ってしまう。結論はまだ先にするが、これもまた、わたし自身が変わり、なおかつ、変わらない面も持っているからであろう。

 

今回はこれまでである。悪文の羅列であったが、ここまでお読みいただけたのみで、誠にうれしい限りである。

 
 

 
 

音声レビューもアップしました。ご参考になるか分かりませんが、ご覧いただければ幸いです。

2017年5月29日

 
 

 

スタイリッシュなエンターテイメント時代劇 北野武監督作品 座頭市

「Dolls」公開の翌年である2003年に、「座頭市」が上映された。「Dolls」と同様、地元浦和の映画館で鑑賞し、見終わった後、お見事と思った。当時の連れも一緒であったが、思わず二人で拍手した記憶がある。

 

しかも、エンドロールが終わるまで見続けた。しばらく余韻に浸り、バックグラウンド・ミュージックが頭の中を駆け巡っていたことを覚えている。

 

今回見返しても、上記の感想に変わりはない。わたしが視聴した、北野武監督作品の中では、「みんな~やってるか!」に次ぐエンターテイメント映画である。けれども、「みんな~やってるか!」は、公開当時、評判が悪かった。ギャグ・ロードムービーと見れば、好評価を与えても良いように思うが、知る限り、故淀川長治のみが賞賛していた。

 
 

 
 

そうは言っても、わたしにとっては、「座頭市」の方が上である。正直、「みんな~やってるか!」のギャグは、下ネタ・オンパレードであり、途中で飽きてしまう。殿ご乱心、と言われていたようで、バイク事故に近い時期に完成し、致し方ない面もあるのだろう。

 

それに引き換え、「座頭市」では、すでに北野スタイルが出来上がっていたように思う。記事タイトルと同様、スタイリッシュなエンターテイメント時代劇である。公開時にはあまり気にならなかったが、今回見返し、光と影が非常に印象的だった。しかも、毎度のように小津さんのようなアングルがあり、スローモーションなども取り入れ、映画というおもちゃを使い回しているようだ。

 
 

 
 

また、「座頭市」には、過去の映画のオマージュが散りばめられているように感じた。たとえば、田を耕す農民たちや最後の櫓を作るシーンなどは、フェリーニの「8 1/2」を思い出す。主人公の背景に唐突なように出てくるサーカス団のようだ。あるいは、雨の中で、市がヤクザ連中と戦うシーンがあるが、黒澤明の一連の時代劇を連想する。

 
 

 

 
 

さらに、考え過ぎかもしれないが、盗賊一味である「扇屋」の子供が、小津さんの子役とダブってくる。小津映画の特徴は、子役の使い方が上手いとされる。戦前の作品から評判であり、わたしとしては、戦後の「お早う」に端的に出ているように思う。もちろん、両親を殺された旅芸者の姉弟も、幼い頃のシーンでは、小津さんの映画を意識しているようにも感じる。

 
 

 
 

おそらく、かつてとは異なり、北野武の名がすでに知れ渡っていたため、こういうオマージュを敢えて入れることで、遊んでいたのかもしれない。遊びと言っても、単なるギャグという訳ではなく、横道にそれる楽しさとも言えるものだ。

 

ただし、一点不満に感じたのは、衣装がキレイ過ぎることだ。武士政権の時代でも、小奇麗な格好をした人々はいたであろうが、時代劇であるので、もう少し汚れていても良かった。黒澤明の時代劇作品では、もっと汚い衣装であったと思う。現代にそういうことを求めるのは、酷なのかもしれないが、やはり、わたしみたいな者には、気になってしまう。

 

いずれにせよ、「座頭市」は、北野武監督作品の中でも、比較的肩肘貼らずに鑑賞できる勧善懲悪の映画だ。特にラストの祭りのシーンは、「座頭市」の醍醐味であり、全てが集約され、単なる時代劇ではない特徴をも表していると思う。

 
 

 
 

なお、オリジナルの第一弾「座頭市物語」を見たことがある。白黒映像で、北野武監督作品の「座頭市」とは違い、王道を行く時代劇映画と感じた。しかし、印象に残っているのが、市が仕事をせびるシーンである。どんな境遇にいようと、人は欲から離れられないとも思った。

 

相も変わらず、中身の薄い記事となった。しかし、ここまでお読みいただけたのであれば、感謝に絶えない。次回もまた、よろしくお願いしたい。

 
 

 
 

 

時間が経つにつれ、ジワジワと押し寄せる 北野武監督作品 Dolls

「Dolls」を初めて見たのは、地元浦和の映画館だった。2002年の寒い時期であり、今から約15年前のことである。その年、決して忘れられない大きな出来事があり、少し落ち着き出した約半年後のことだった。先日、そんな「Dolls」を見返した。

 
 

 
 

当時は、「ソナチネ」に次いで二番目に好きな北野映画になった。ビスコンティやフェリーニなどを連想させ、北野武は巨匠監督の一人になる、と感じたからだ。けれども、今回見返した時点では、「ソナチネ」に次ぐとは言い切れない。再び見るべき作品がまだまだあるからだ。

 

また、今回見返した直後では、何とも言えない気持ちになった。つまらない、あるいは、面白くない、ということではない。3つのエピソードが織りなすストーリーにのめり込み、様々なことを想起できた。涙が出るようなことはなく、おそらく北野武監督作品への回帰を本当に自覚できたからだろう。何かポッカリとしながらも、嫌な気分ではく、言葉にならないというのが、正直な感想だ。

 

しかし、時間が経つにつれ、ジワジワと押し寄せて来た。独特の様式美的な表現であり、日本の豊かな季節の風景が、映像の所々で使われている。とりわけ、桜と紅葉が印象的であり、頭の中にずっと残っている。日本の自然美と形容でき、つい見とれてしまう。これと対照的であるのが、3つのエピソードだ。

 

一体、自分が原因とは言え、精神を病んでしまった元彼女と、物干し用のロープで繋がり合い、日本各地を転々とできるのか?

 
 

 
 

一体、何十年も前に去って行った男を、お手製の弁当を二つ抱えながら、ベンチで待ち続けることができるのか?

 
 

 
 

一体、好きなアイドルとはいえ、彼女が片目を失明したら、見てはいけないとの理由で、自分の両目を傷つけることができるのか?

 
 

 
 

冷静に考えれば、上記のことは狂った行為であろう。けれども、どこかしら共感してしまう。これを鑑みた場合、人の心は、少し進路を変えれば、狂気に走るのかもしれない。もちろん、そこには、わたし自身も含まれる。だからこそ、時に自分が嫌になることもある。

 

もし「Dolls」を端的に言うのであれば、狂った恋愛に走り、醜い姿のエピソード集ともなる。全体的に見れば、日本を舞台にした美と醜のエピソードが描かれているともなろう。「ソナチネ」のレビューで述べているが、北野武という人は、やはり、逆説性や両義性などをよく理解していると思う。

 

時に善が悪になるように、美しいこともまた醜いことになる。そのまた逆も然りである。「Dolls」においては、そんなことが非常にコンパクトに表現されていると思う。

 

また、後年の「TAKESHIS’」や「監督・ばんざい!」で見られるようなシュールな遊びもある。たとえば、雪小屋の物干しからドテラを持っていくシーンがある。当初、物干しだけ映されていたが、徐々に変化し、絵に書いたようなドテラが二つ浮かび上がる。少々わざとらしさもあるが、映画とはおもちゃでもあり、そういう遊び感覚が大事でもあろう。

 

始めでも終りでも、浄瑠璃のカップルが出て来る。人形が見ている人の物語を演出したとされるが、それもまた、シュールな遊び感覚に思われる。「ソナチネ」のレビューで、北野武監督は人形使いと述べているが、「Dolls」において、それが直接的に現れたとも言える。先で触れた「TAKESHIS’」や「監督・ばんざい!」は、現実と空想の間を行き来する話だ。すでに「Dolls」の中でも、垣間見えている。

 
 

 
 

もしかすると、「Dolls」は難しい映画と見なされているかもしれない。しかし、よくよく見れば、実に簡単なことを描いているのかもしれない。おそらく恋愛そのものが、狂気の類であることを表現しているのだろう。この点では、「あの夏、いちばん静かな海」の方が、一般的な感覚に近いかもしれない。しかし、「あの夏、いちばん静かな海」では狂気の類が、向こうから訪れてくるが、「Dolls」ではこちらから訪れて行くように感じる。どちらもまた、人の不可思議さや皮肉、哀愁や切なさ、そして、逆説性や両義性などが描かれているように思う。

 

北野武の映画と言えば、キタノブルーが有名である。「HANA-BI」によって広く知れ渡ったが、「Dolls」においては、カラフルな映像であり、ブルーに偏った感じがない。破壊と建設を続けることが、北野武の特徴でもあり、団塊世代生まれとの関係から、どうしても実存主義と結びつけてしまう。皆さんは、どのようにお思いになるだろうか?

 

なお、個人的には、アイドル役に深田恭子を起用し、彼女の持ち歌である「キミノヒトミニコイシテル」をそのまま使用したのが、非常に面白かったと思う。いかにもアイドルの歌であり、エピソードとは対照的なリズム感が、返って印象に残ってしまった。初めて見た時は、知人などとカラオケへ行き、ついつい歌ってしまったほどだ(笑)。これもまた、北野武とともにビートたけしの力でもあるのだろう。

 

長くなった。今回はこれまでである。相変わらず、中身の薄いレビューとなっているが、最後までお読みいただければ、誠にうれしい限りである。

 

参照 :

- Dolls 公式サイト

- 深田恭子 キミノヒトミニコイシテル Uta-Net動画+

- 色褪せない操り人形と鮮やかな海 北野武監督作品 ソナチネ

 
 

 
 

音声レビューもアップしました。ご覧いただければ、幸いです。

2017年6月2日