絶妙な光と影と小津さん 北野武監督作品 アウトレイジ ビヨンド

2012年に公開された北野武監督作品が「アウトレイジ ビヨンド」である。2010年に上映された「アウトレイジ」の続編であり、シリーズ第二弾とも言える。

 

当時わたしは、北野武監督が作品を公開し続けていることを知っていたが、見る気はしなかった。もちろん、映画館でもレンタルでもだ。そのため、前作の「アウトレイジ」に引き続き、今回が初視聴となった。

 

物語は、より過酷なヤクザ同士の抗争に入ったと言えるだろう。

 
 

 
 

武闘派で知られた大友組が消滅した後、統括グループであった山王会は、ますます勢力を拡大した。会長が交代し、元大友組の金庫番が若頭となっていた。しかし、勢力下の組長たちよりも年が若く、しかも厳しい上納などを要求したため、組長たちの中には反目している者もいた。そんな中、刑務所で殺されたと思われた元大友組組長が出所することになった。後輩のマル暴刑事にけしかけられながらも、元村瀬組の若頭や関西の巨大グループである花菱会も加わり、山王会との抗争が激化して行く。

 

以上、「アウトレイジ ビヨンド」の簡単な内容である。実際、シリーズ三部作の中の第二弾であるので、つなぎのような作品と見なせる。より過酷になった抗争がどのような結末へ至るのか、それを期待させてくれるような映画でもある。

 

しかし、わたしは、結末への単なるつなぎ作品とは思えなかった。「アウトレイジ」以上に洗練された北野スタイルで描かれ、エンターテイメント映画でありながらも、映像の面白さを十分堪能できると感じた。

 
 

 
 

たとえば、光と影のバランスである。山王会や花菱会での会合シーンなどが典型的であるが、登場人物の背後に光と影がバランスよく配されている。仮に光が表の顔であれば、影は裏の顔でもある。欲望渦巻く、ヤクザの世界を光と陰で表現しているようだ。

 

また、会話の展開がリズミカルなシーンもあった。言い換えれば、小津さんの映画のように、短いセリフでカメラを切り替える場面である。そういう小津さんが作り上げた場面をマネをしている監督は多々いるが、短い場面が続くので、つながりが下手だと見ているこちらは、めまいを感じるようになる。

 

けれども、北野武監督の場合、それがない。小津さんのように時間を計算し、編集したのかはわからないが、リズムをきちんと考えていたのかもしれない。また、小津さんはローアングルであり、なおかつ、登場人物の視線をカメラに合わせず、微妙に斜めを向かせていた。北野武監督もまさに、似たような視線の取り方をしていた。これは監督の趣向などもあるだろうが、よりリアル感があり、面白さもあると思う。

 
 

 
 

わたしが見た中での感想であるが、これまでの北野武監督作品の中で、最も小津さんを意識したが、この「アウトレイジ ビヨンド」ではないかと思う。

 

小津さんと言えば家族映画であり、バイオレンス映画とは無縁であると思うだろう。また、テレビ局が制作している家族ドラマが、、彼の作品を継承していると考える人も多いかもしれない。しかし、肩入れしていることを認めながらも、北野武監督の方がより引き継いでいるような感じがある。

 

日本を描いたと言われる小津さんは、アメリカ映画が好きだった。しかも、全く異なるような大島渚監督作品をも賞賛していた。一見矛盾するようであるが、独創における適不適とはまた違ったところに、好き嫌いや賞賛があるのかもしれない。

 
 

 
 

いずれにせよ、「アウトレイジ ビヨンド」は単なるつなぎの映画ではなく、北野スタイルによる映像美を十分楽しめるエンターテイメント作品であると思う。

 

もし欠点を述べるのであれば、男ばかりの物語であり、女が出て来ないことだろう。けれども、穿った見方かもしれないが、北野武監督作品には、映像の向こう側に「母」がいるような気がする。もちろん、前作の「アウトレイジ」においてもだ。

 

一見すると女はいないが、映画全体の中にしっかり存在しているのでは、とも思う。そうでなければ、過酷な生死を描く映画は成立しないかもしれない。もっとも、内心ではシリーズの最後で女が出てくるかも、とは思っている。(笑)

 

「アウトレイジ 最終章」は、本年(2017年)秋に公開予定である。北野武監督作品に回帰したわたしは、映画館で鑑賞予定である。どんな結末になるのか、そして、どんな映像を見せてくれるのか、今から楽しみにしている。

 
 

 
 

 

動と静の中の欲望の連鎖 北野武監督作品 アウトレイジ

北野武監督作品「アウトレイジ」が公開されたのは、2010年である。当時は、映画などを積極的に見ようとせず、北野武監督作品からも離れていた。そのため、劇場で鑑賞することはなかった。

 

今回が初視聴となったが、見終わった後、北野武監督は健在であると思った。エンターテイメント映画であるが、北野スタイルを堅持し、より洗練された動と静を組み合わせ、「痛い暴力」を表現している。

 

物語を端的に言えば、ヤクザの抗争劇である。

 
 

 
 

池元組配下の大友組は、武闘派組織でもあり、池元組組長から面倒な仕事ばかりを任される。総本家の山王会から釘をさされた池元組組長は、大友組を使い、兄弟分で山王会の配下に入っていない村瀬組と、見せかけの争いをするよう命令した。大友組は、その通り実行するが、村瀬組組員は敵対者と誤解し、一部の山王会上層部は大友組のシマを独占しようと企てた。そうして、グループ内での裏切りなどが起こり、激しい抗争劇へと向かって行く。

 

以上、「アウトレイジ」の」大まかな内容であるが、先の言葉を換えれば、ヤクザ同士の欲望に基づいた復讐劇でもある。配下の組のシマを横取りすべく、様々な企みをする。あるいは、昔ながらの任侠精神を持っている組員たちは、自分たちを蔑ろにした組織幹部に怨みを持つ。血で血を争う戦いが、メインストーリーでもあろう。

 
 

 
 

けれども、単なるバイオレンス映画でないことは、北野武監督ならではである。

 

「痛い暴力」は健在であり、典型的なのがビートたけし演じる大友組組長が、親分でもある池元組組長に復讐を遂げる場面だ。池元組組長が舌を出した瞬間、大友組組長が顎を突き上げる。池元組組長が自ら舌を噛んでしまい、その場に倒れる。あるいは、覚醒剤を横流ししていたラーメン屋店主の耳に割り箸を突っ込むシーンなど、作り物であると知りながらも、思わず「痛い」と感じる。

 

おそらくこういう「痛い暴力」シーンを見て、北野武監督が暴力好きと思う人はいないだろう。むしろ、暴力が嫌いであり、だからこそ「痛い」思いを映像に込めているようにも感じられる。現に北野武監督は、自ら「長い暴力シーンは嫌い」と発言していた。あっさり終わる暴力シーンは、リアリティの一部でもあるが、そういう彼の思いが含まれていることも、見ている側としては知っておいて損はないだろう。

 
 

 
 

しかし、「アウトレイジ」は、第63回カンヌ映画祭に出品し、良い評価を得られなかった。

 

- シネマトゥデイ(2010年5月18日)
- 厳しい評価!北野武監督『アウトレイジ』星取表で最低点!5点満点で0.9点【第63回カンヌ国際映画祭】

 

上記の記事によれば、バイオレンス・シーンが嫌われたようで、見るべきでないとの警告を発した審査員もいた。けれども、同じように暴力シーンが多々使われていたタンランティーノの「パルプ・フィクション」は、第47回カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞している。1994年度であるため、かなり時間が経過し、時代が変わったと見なすこともできる。

 

そうは言っても、カンヌにはカンヌに好かれる作風があるのだろう。むしろ、先の記事にもあるように、アメリカでの評価が高かったようで、至極納得できることだ。また、日本公開時でも、北野武監督作品の中では、興行成績が良好だった。カンヌで嫌われたからと言って、「アウトレイジ」自体に価値がないとは言えないだろう。

 
 

 
 

わたしに言わせれば、「アウトレイジ」は純粋なエンターテイメント作品である。観客に受け入れやすかったのは、難しいテーマなどを考えなくても、視聴できるからだろう。だからといって、ドラマがないと言うことではない。義理人情や裏切り、不安や怯えなどがきちんと表現されている。

 

仮に欠点を挙げるなら、またヤクザを使ったということである。実は「アウトレイジ」を鑑賞する前に、2015年公開の「龍三と七人の子分たち」を見た。「アキレスと亀」の後、今年(2017年)公開予定の「アウトレイジ 最終章」を含め、四作品がヤクザを主人公としている。

 

日本を舞台にしたバイオレンス映画を作るのであれば、ヤクザが最も扱いやすいのかもしれない。また、60年代から続く任侠映画の下地もあり、観客に受け入れやすい環境があることも、確かだろう。これを鑑みれば、致し方ない面もある。だからこそ、「アウトレイジ」では、よりエンターテイメントを強め、より激しさを増した暴力シーンを盛り込んだのかもしれない。

 
 

 
 

ただし、続編の「アウトレイジ ビヨンド」を見た後、北野武監督は、ゴッドファーザー・シリーズを意識しているのでは、と思った。ゴッドファーザー・シリーズも、エンターテイメント映画の一つと言えるが、きちんとしたドラマが描かれている。親子やマフィア同士の葛藤などは、見ているものに熱く伝わってこよう。

 

アメリカがマフィアなら、日本はヤクザ、と北野武監督であれば、容易に考えつけることのように思う。ゴッドファーザー・シリーズと同様、「アウトレイジ」は全三部作となる。今年公開予定の最終作が非常に楽しみである。

 

また、ゴッドファーザー・シリーズばかりでなく、タランティーノも意識しているかもしれない。彼の映画も、バイオレンスで知られ、動と静を使った「痛い暴力」を目にすることができる。しかし、北野武監督との最大の違いは、スプラッター・ムービーのようなバイオレンスが多いことだ。

 

エンターテイメントとして楽しめる人もいようが、わたしは基本的にスプラッター・ムービーやホラー映画などは好きではない。どこかしらリアリティが薄い感じがするからだ。もっとも、存在を否定しているのではなく、そういう映画があっても良いであろう、とは思っている。

 
 

 
 

長くなった。もうそろそろで終わりにするが、「アウトレイジ」であと一つだけ、目立った点がある。それは役者が変わったことである。いわゆる北野組の役者を使わず、有名俳優たちが演じていたことだ。

 

これは似たような作品である「Brother」とは違っている。「Brother」もエンターテイメントの要素があるが、こちらは北野組のエンターテイメント映画であり、身内による作品とも言えよう。

 

しかし、「アウトレイジ」に関しては、より多くの人々に訴えようと、有名俳優を配したのでは、と思ってしまった。この点では「座頭市」と似ている面があり、それよりもさらに、エンターテイメント性を狙ったのかもしれない。

 

そして、個性豊かな有名俳優に見合ったシーンを提供し、観客によりインパクトを与えているように思える。だからこそ、興行成績なども良好だったのではなかろうか?

 

これでこの記事は、本当にお終いである。相変わらず、中身の薄いレビューであるが、ここまでお読みいただいたのであれば、幸いである。次回もまた不定期更新だ。

 
 

 
 

 

味わいある下町人情喜劇 北野武監督作品 龍三と七人の子分たち

北野武監督作品「龍三と七人の子分たち」は、2015年に公開された。本年(2017年)秋に上映予定の「アウトレイジ最終章」を除けば、直近の映画である。当然、視聴したことがなく、今回初めて目にした。

 

ストーリーは、元ヤクザの龍三を中心に展開されて行く。

 

元ヤクザの龍三は、同居中の長男夫婦から疎まれ、引退した日々を持て余していた。元舎弟と賭け事などをしながらも、どこか物足りない暮らしだった。そんな時、オレオレ詐欺に引っ掛かりそうになり、京浜連合の存在を知る。龍三は元兄弟分たちを集め、一龍会を結成し、京浜連合と対立することになる。

 
 

 
 

以上、「龍三と七人の子分たち」の簡単なあらすじである。北野武お得意とも言える、ヤクザ映画の一つでもあるが、特徴は老人たちが主人公ということだ。しかも、全体的にコミカルな作りになっている。暴力シーンなどもあるが、つい笑ってしまう場面が多々散りばめられている。

 

たとえば、龍三が着替えなどをすると、必ずと言っていい程、屁をする。ドリフターズのコントで使われたような音であり、つい笑みが溢れてしまう。しかも、演じているのが藤竜也であり、彼の全盛期を知る人であれば、ギャップの差に頬が緩むだろう。

 

また、龍三たちが借金の取り立てを手伝うが、無情な請求に怒りを感じ、逆に龍三がお金を挙げてしまうシーンがある。こんなことができるか!、と龍三が取り立て屋を殴る場面があり、お前が言えるのか!、とツッコミを入れたくなる。これなどは、ビートたけしらしい笑いでもある。

 
 

 
 

けれども、単なる笑いではなく、どことなく人情を感じる。先の取り立て屋のエピソードであれば、ヤクザという悪人が弱い者を助ける。一般的な感覚であれば逆だが、そこに矛盾があり、最低限の心まで失っていないことをも表現している。

 

こういうシーンを見ながら、寅さんシリーズを連想した。もしかしたら、寅さんを意識しながら制作した映画かもしれない。龍三と寅次郎。3と2の違いである。

 

仮にそうだとすれば、個人的には「龍三と七人の子分たち」の方が好きである。理由は簡単だ。龍三たちの方がリアルな人に近く、単なるエピソードの連なりだけで、物語が成立している訳ではない、と感じるからだ。

 

また、映画タイトルから察せられるように、黒澤明「七人の侍」をも意識しているかもしれない。日本のアクション映画では、最高峰であろうと思うが、北野武監督も高く評価している。カーアクションは、馬を車に換えた「七人の侍」へのオマージュとも読み取れる。

 
 

 
 

「龍三と七人の子分たち」は、全体的に見れば、すでにベテランの域に達している作品であろう。笑いもあり、人情もあり、下町が舞台でもあるので、記事タイトル通り、下町人情喜劇である。

 

同時に味わい深さもある。元ヤクザたちであるのに、結局、自分たちを犠牲にし、悪どい若者たちを成敗してしまった。ビートたけし演じる刑事が、犯人の一人を殴るシーンは、それを象徴しているようにも思う。

 

こういうところに、北野武監督の優しさを感じ、クサイ話をさりげに作る彼らしさもある。「菊次郎の夏」に通じるような映画でもあろう。そして、どこかしら人の良心を信じていたいという意思も感じられ、それには人の悪も見なければいけないという思いも伝わって来るようだ。

 
 

 
 

見終わってから時間が経つにつれ、妙な心地よさが湧いて来た。この点は、全くテーマが異なる「Dolls」などと似たような感じだった。ただし、京浜連合との直接対決が映像に出てくるまで、少し長いように感じた。

 

龍三たちの紹介や再開、彼らだけのエピソードが少々縮められていても十分伝わったのでは、と思う。しかし、全体的に見れば、先で述べたように味わいある下町人情喜劇である。寅さんシリーズ以上の質の高さを感じる。

 

そう言えば、「龍三と七人の子分たち」には、街宣車や特攻服なども出て来る。色々な考え方があるが、「Brother」などを鑑みると、北野武監督は先人の意思を十分理解しているのでは、と感じた。こういうことは、寅さんシリーズではあり得ないかもしれない。これもまた、「龍三と七人の子分たち」を支持する理由の一つでもある。

 

今回はこれまでである。相変わらず中身が薄いが、何らかのお役に立ったのであれば、幸いである。次回もまた、不定期更新だ。

 
 

 
 

 

合わない人には合わない、感覚的イメージの連鎖 北野武監督作品 TAKESHIS’

北野武監督作品「TAKESHIS’」が公開されたのは、2005年である。今年で干支が一回りし、随分前のことにも感じるが、個人的には転機の年だった。第二次独身時代が始まり、メスの柴犬との暮らしもスタートした。

 

こういうことも関係あるのだろう。「TAKESHIS’」は2003年公開の「座頭市」とは異なり、映画館では見なかった。お決まりのようにレンタルDVDで視聴し、以来長い間振り返ることがなかった。今回二度目の鑑賞となり、初回とは違った感もある。おそらくわたしの心が変わったことが、大きな要因でもあろう。

 

物語はビートたけしと北野が中心である。

 

売れっ子タレントのビートたけしは、その日もテレビ局へ向かった。仲間などと歓談するが、楽屋で自分とソックリの北野と遭遇する。奇妙な感じがしながらも、芝居用の彫り物を入れることにした。そんな中、ビートたけしと北野が夢現のような世界に入り、それぞれの意識が交錯して行く。

 
 

 
 

以上、「TAKESHIS’」の簡単なあらすじである。結論を言ってしまえば、この映画はああだこうだ理屈をこねて、説明するものではない。おそらく感覚が合わない人には、面白味が感じられないだろう。初回の観賞時も同じように思い、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」や寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」などが連想された。

 

たとえば美輪明宏が登場し、「ヨイトマケの唄」を披露している。知る限り、安保闘争の頃に流行った曲で、団塊の世代においてはお馴染みかもしれない。美輪明宏は寺山修司の映画にも出演し、独特の存在感があった。「TAKESHIS’」でもまた、味のある演技をしていた。

 

やはり育った時代の影響は大きいのだろう。北野武監督も、団塊世代の一人であり、出演者ばかりでなく、「TAKESHIS’」全体の雰囲気が時代感覚を思わせる。けれども、意外にまとまった感じもし、むしろ「ツィゴイネルワイゼン」や「書を捨てよ町へ出よう」などの方が、脈絡もなく物語が展開し、より感覚的な映画になっている。

 
 

 
 

また、どうしてもフェリーニの影を感じてしまう。映画の途中、ビートたけしソックリの北野がピエロと出会う。北野はピエロの格好をしながらビートたけしと対面した。自身の姿が反映されていると感じられる。

 

フェリーニの「8 1/2」でも、ピエロが出て来る。記憶している中では、北野と対面するピエロとは違い、主人公の背後で蠢いているだけだった。おそらく主人公の内面の一部を表現したものだろう。しかし、背後でありながらも、要所要所でピエロが登場していた。「TAKESHIS’」で使われたことは、そんなフェリーニへのオマージュとも取れる。

 

さらに、「TAKESHIS’」の中でも、北野武監督自身が描いた絵画が使われている。初めて取り入れたのは「キッズ・リターン」であり、とりわけ「HANA-BI」では、多くの場面で目にすることができる。「アキレスと亀」では、自身の絵画を使ってストーリーを進めたようだ。

 

わたしは、絵を描くことが苦手であるので、あまり生意気なことは言えない。しかし、北野武監督の絵画は、非常に原色が強い。それが映画にも反映されていると思う。もちろん「TAKESHIS’」においてもだ。

 
 

 
 

以上のほか、「TAKESHIS’」で目についたのが、岸本加世子の存在である。ビートたけしに対しても、あるいは、北野においても、彼女が突然現れ、邪魔をする。いじめと言えばそうかもしれないが、どこかで母親のような感じもある。

 

典型的なのが、北野の恋人になった京野ことみと殴り合いを演じる場面だろう。穿った見方かもしれないが、嫁と姑の争いのようにも感じられ、三世帯家族においては、少なくとも内面では同じなことがあるのでは、と思ってしまった。

 

また、個人的には、北野武監督と岸本加世子は、小津さんと杉村春子の関係を連想させる。小津さんは、自身の映画の四番バッターは杉村春子と述べていた。どちらも、下町にいるようなおばさんを演じることで、見ているものに強烈な印象を与える。もしかしたら北野映画の四番バッターは、岸本加世子なのではないかとも思っている。

 
 

 
 

そう言えば、「TAKESHIS’」は、気持ちが落ち込んでいた時の作品と耳にしたことがある。北野武監督の作品が海外では高評価でも、国内では低評価であり、そのギャップに悩んでいたということだ。確かに北野武監督作品は、海外から輸入された感もある。

 

しかし、「HANA-BI」がヴェネチア金獅子賞に選ばれてから、必ずしもそうとは言えないかもしれない。かつてのように海外よりも国内公開の方が遅いということがあるだろうか? 一時期北野武監督作品から離れたとはいえ、「HANA-BI」の快挙以来、クレジットで大手スポンサーの名を目にする。「ソナチネ」の頃を考えれば、大きな飛躍にも思える。

 

また、「TAKESHIS’」は無茶苦茶なようでありながらも、「崩壊」までには至っていないと思う。唐突に入ってくるシーンもあるが、それが意識の象徴とすれば、納得できる。卑近な例であるが、真面目くさった顔で演説している会社の社長が、頭の中では、女の裸を思い描いていることもある。

 
 

 
 

何らかの連想から起きることもあれば、そうでないこともある。意識の分散とも言えるかもしれないが、日常生活の中では、そういうことも経験している人が多いだろう。「TAKESHIS’」の唐突なシーンも、それに似ていると思う。

 

けれども、唐突なようでありながら、すでに登場したシーンであったり、あるいは、映画の中で目にしたキャラクターの映像であったりする。どこかで計算している感もあり、だからこそ「崩壊した映画」とは思えない。これは、「3-4X10月」や「みんな~やってるか!」、あるいは、「監督・ばんざい!」などにも共通していると思う。壊れたと言いながら、実は完全に壊れていないことが、北野武監督の特徴ではないかとも思っている。

 

繰り返すようだが、「TAKESHIS’」は感覚的な映画である。感性などが合わない人には面白味のない作品でもある。わたしは、育った時代の影響もあろうが、見返した時、以前よりも面白く感じられた。もし北野映画の中で訳の分からないものを見たいという人がいれば、「TAKESHIS’」を勧めることだろう。

 

そして、同時に「ソナチネ」や「HANA-BI」、「座頭市」などもオススメする。人には色々な顔があり、一般人であろうと同様である。ましてや表現者であれば、当前であろう。太宰治が「人間失格」のような作品を書きながらも、「走れメロス」のような小説も発表している。ビートたけしと北野の関係と同様であると言ったら、熱烈なファンに怒られるかもしれない。

 
 

 
 

ただし、多面性の中にも共通点はある。北野武監督も同様であり、簡単にいえば、北野流スタイリッシュさであろう。色々な遊びを考え出し、それを映像化しているが、カメラは外から人を捉えるもの、ということを十分把握しているようだ。だからこそ、小津さんと似たようなものも感じられるのだろう。

 

もちろん、「TAKESHIS’」もそういう中に入ることは、言うまでもない。

 

長くなった。正直、こういう映画を言葉にするのは、難しかった。いつも以上に、中身のないレビューとなっているが、最後までお読みいただけたのであれば、誠にうれしい限りである。

 

次回のレビューもまた、不定期更新の予定だ。

 
 

 
 

 

真知寿と幸子は理想的な夫婦 北野武監督作品 アキレスと亀

わたしの中では、とうとうである。先日、2008年に公開された、北野武監督作品「アキレスと亀」を初めて視聴した。すでに掲載している北野武監督の映画レビューは、少なくとも2度目以降の視聴経験を元に書き上げている。今回はそれとは全く異なる。

 

全体としてみれば、北野武監督作品らしく、喜びばかりでなく、悲しみも描かれ、狂気も垣間見え、滑稽な感じもある。クサイ終わりをさりげに表現したともいえ、総合的には良であり、好きな作品の一つに含められる。けれども、一部それまでにはあまり見られなかった、過剰な泣き叫びのシーン等もあり、「監督・ばんざい!」の破壊により生まれた、新たな彼の一面かもしれない。

 

映画の内容は、画家を志している倉持真知寿(くらもちまちす)を中心に展開されて行く。

 
 

 
 

真知寿は、裕福な家庭で育ち、ぼっちゃんと呼ばれていた。父がタニマチとなっていた画家から絵を褒められ、以降、画家になることを夢見る。どんな時でも、絵を描くことに夢中になり、電車を止めたこともある。しかし、父の会社が蚕事業で失敗し、倒産した。社長であった父は情死を遂げ、叔父の家に引き取られた。過酷な扱いを受け、母も崖から飛び降り、孤児院に預けられることになった。

 

そうして、真知寿は成長し、住み込みの新聞配達員をした。相変わらず絵に夢中で、新聞配達の合間にもペンを取ってデッサンした。もっと勉強しようと、美術学校へ行くことを決意し、町工場で働くことになる。そこで事務員の幸子と知り合い、結婚し、娘のマリが生まれた。真知寿は、幸子と共に芸術活動に明け暮れる。認められなくても、売れなくても、二人の活動が続いて行く。

 

以上、「アキレスと亀」の大まかなストーリーである。まとめて記述しているが、映画の中では、少年期、青年期、中年期の3部で描かれている。しかも、冒頭が非常に印象的である。

 

有名なアキレスと亀のパラドックスが、アニメで表現されている。足の速いアキレスでも、ハンデをもらった亀には、決して追いつけない。アニメの中では、数を伴い、具体的な説明がなされている。なるほどと頭で思えるかもしれないが、果たして、それはどうなのか?

 
 

 
 

結果については、映画の最後に出て来る。ネタバレになるだろうが、アキレスはとうとう亀に追いついた。その追いつき方が、映画「アキレスと亀」の最大の特徴であろう。

 

真知寿は、画商に絵を売り込んでも、きちんと買い取ってもらえない。アドバイスを受け、それに習ったつもりでも、お金をくれない。前衛的な作品に取り組み始めるも、奇行と見なされる。たとえば、トラックで絵を轢いてもらうことを懇願したり、あるいは、商店街のシャッターに絵を描いたりする。

 

はては、危機からインスピレーションを得るため、妻の幸子にはボクサーと戦わせ、自身は湯船に顔を埋め、限界まで妻に抑えてもらった。警察沙汰となり、幸子は別れ話を持ちかけ、思春期を迎えた娘は家を出た。それでも、芸術活動を止めなかった。

 

認められないことが続けば、おそらく多くの人が諦めるだろう。思い込みすぎた人であれば、自死を選ぶかもしれない。それは「アキレスと亀」の中でも描かれている。しかし、真知寿は止めなかった。たとえ才能がないと、心の底で自身が認めていても、離れることはなかったろう。

 

ここまで来ると、まさに狂気と言える。おそらく真知寿においては、芸術活動が人生の手段ではなく、芸術活動そのものが人生になっていたようだ。仮に彼の作品がきちんと認められたのであれば、こうはならなかったかもしれない。もちろん、才能がないから認められないとも言えるが、作品そのものを生み出す才がなくとも、活動そのものを続ける才はあったのかもしれない。おそらく売れてしまったら、真知寿は真知寿でなかったろう。

 
 

 
 

けれども、転機は娘のマリの死によって、訪れる。警察の死体安置所で幸子と再会したが、真知寿はインスピレーションが湧き、幸子から口紅を借り、動かないマリの顔を使って作品を生み出そうとする。さすがに幸子が呆れ果て、泣き叫びながら出ていった。傷心した真知寿は、自殺を試みても成功しない。最終的に、藁小屋に火をつけ、その中で絵を描こうとした。

 

出来上がりよりも速く火の手が回ったが、全身火傷で一命を取り止める。透明人間のような出で立ちで退院し、途方にくれていると、半分腐った空き缶を拾い上げ、フリーマーケットで20万円で販売した。買い手が付くことはなかったが、そこへ幸子がやって来た。真知寿もついに何かを悟ったようだった。おそらく彼の作品は、幸子のためだけのものであり、それをようやく気づかされたのだろう。

 

こうして見ると、真知寿は幸子が側にいることで、生きられるのかもしれない。いわば、幸子は真知寿の作品の理解者であり、幸子しか理解できなかった。映画の途中で、真知寿が描いた絵画が、喫茶店で飾られているシーンが出てきた。しかし、これは詐欺師的な画商の作為であり、理解されたからではない。

 
 

 
 

「アキレスと亀」は、芸術家が主人公であるので、独特の芸術世界を描いたようにも見える。確かにそれもあろうが、わたしは恋愛映画であり、家族映画であるとも思う。北野武監督作品であれば、「あの夏、いちばん静かな海」や「HANA-BI」、「Dolls」や「菊次郎の夏」と同様に感じる。その中でも、芸術家がメインであるので、より狂気が強まったと見なせる。

 

そして、記事タイトルにもあるが、真知寿と幸子は、理想的な夫婦だろう。小津さんの「東京物語」に登場した老夫婦とは違った二人のあり方で、決して一般受けはしない。真知寿と幸子は一時的に離れてしまったが、手鍋提げても、という言葉も浮かんで来る。すでに現代のような時代では、古臭いことだろうが、そういう人に巡り会えたのであれば、これ程恵まれたことはない。

 

恋愛は狂気の一つに数えられることもあるが、それは結局、男女のことである。「アキレスと亀」は映画であるので、オーバーな描き方がなされているが、現実においても、心の中では、似たり寄ったりなことが起きているのではなかろうか?

 
 

 
 

そう言えば、随分前のことだが、北野武監督は、あるテレビ番組の中で、芸人を引退した友人の話をしていた。彼は漫才師として失敗し、一般家庭を築いていた。しかし、子供たちと鍋を囲み、親らしい姿をしていた。それを目にした北野武監督は、こっちの勝ちじゃないか、ということを口にしていた。

 

先述しているように、「アキレスと亀」の最後は、アキレスがついに亀に追いついた、という字幕である。もしかするとこれは、こっちの勝ちじゃないか、という言葉に呼応しているのかもしれない。

 

幸子がフリーマーケットに現れた時、「帰ろう」と言う。真知寿は幸子に導かれ、腐った空き缶を捨てる。

 

芸術から家庭の道へ。

 

アキレスが芸術、亀が家庭の象徴であれば、芸術を捨てることで、ようやく家庭に入れるのかもしれない。亀の硬い甲羅で、二人が守っていく。そんなことも含まれているように感じる。けれども、そうなるためには、幸子との一時的な別離や娘の死、さらに自身の自殺未遂という犠牲があって、初めて行き着いたことだ。

 
 

 
 

もし真知寿が詐欺師的ではなく、真っ当な画商と出会っていたら、どうなっただろうか? 多少なりとも、作品による収入が得られ、映画のようにはならなかったかもしれない。けれども、それもまた縁であり、運命とも見なせる。繰り返すようだが、そうならなかったからこそ、真知寿は真知寿であったとも言える。

 

「アキレスと亀」は、わたしの中では、非常にポイントの高い作品で、オススメの一本に数えられる。ただし、敢えて欠点を指摘するなら、少年期が少し長く感じられることだ。また、相変わらずヤクザも登場するので、ワンパターンと見てしまうかもしれない。しかし、作品全体を鑑みれば、十分見ごたえのある映画だ。

 

意外と言っては失礼であろうが、見返したい作品の一つになった。視聴した後、別な意味で寂しくなり、「Dolls」等と同様、じわじわ感慨深いものが出てきた。

 

また一つ、北野武監督作品の中で、傑作に近いものを見つけられたような気がしている。

 
 

 
 

「アキレスと亀」の音声レビューです。当記事と内容が被るところもありますが、よろしければお聞き下さい。

 

(2017年5月3日)