とりとめのない言葉

時にモヤモヤッとした感覚に囚われる。かつて「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、この世を去った有名な作家がいたが、そんな大それたものではない。本当にモヤモヤッとしたものだ。霧に包まれているのでもない。あるいは、暗闇に閉ざされているのでもない。

 

そこにいるとは分かっていながらも、どこか遠くを見つめているような、そんな感覚である。おそらく先の「ぼんやりとした不安」の「ぼんやり」は同じでも、「不安」ではない。心配でもなければ、憂鬱でもない。基点も定点もない、どこか浮ついた感覚でもある。

 

季節が春だからか?

 

こうなると、先日アップした記事と重なる。生命の息吹を感じる春でありながらも、無気力状態となる。五月病というものがあるが、これからが本番である。しかし、そういう季節ものでもない。疲れたからでもなく、脱力からでもない。やはり、ぼんやりとしながらも、浮ついた感じである。

 

 

けれども、そういう時になると、何でもいいから、言葉を紡ぎたくなる。意図はない。テーマもない。決まり事もない。ただ単に言葉を紡ぎたくなる。傍から見れば、意味のない言葉かもしれない。かくいう本人も、そんなことを意識せず、ただ単に言葉を紡ぐだけである。人は言葉の生き物とも言われているが、それとも関係しているのかもしれない。もしくは、定まりはないけれども、何かを生み出す前段階であり、それが形を帯びた時、何かしらの強い行動に出られるのかもしれない。例にはならないかもしれないが、生きている中での緩衝地帯のようにも思う。

 

そういえば、哲学者の西田幾多郞は、評論などで一度も推敲しなかったという。心のままに書き連ねたものを発表し、後世に大きな影響を与える西田哲学を確立した。もっとも、確立と言えば、何かしら意図的な響きがする。確立ではなく、産出と言った方がいいのかもしれない。いわば、子供を産むことと同様であり、何らかの行為をしながらも、自然と出て来たものかもしれない。その方が、西田哲学を紐解く上で、より理解しやすい面があるかもしれない。もっとも、わたしは、哲学を解せる程、学習した者ではない。ましてや、専門家でもない。けれども、西田幾多郞の有名な言葉には、感慨深さを覚える。

 

絶対矛盾的自己同一。

 

己の中には、絶対的に矛盾するものがあり、それを同一化することで生きている。単純に考えれば、口では偉そうなことを言いながらも、実際の行動に移せない人がいる。あるいは、平気でウソをつけることもまた、自己の中に絶対的な矛盾があり、それと同一化しようとしているからかもしれない。もっともこれは、あまり良い例ではないだろうが、一般的な生き方をしていても、こいうことがあるのではなかろうか?

 

ともあれ、とりとめもない感覚に囚われていると、妙に生き死にのことを思い浮かべたりする。考える、とまではいかなくても、生き死が浮かび上がり、そうして、思うことがある。

 

ああ、おれも死ぬんだ。

 

確かに死に対する怖さもあるが、それ以上に、不思議な感覚もする。自分というものを意識しながらも、死というものがあり、それを確認しながら、生きている。わたしが生まれる前には、数々の先人が誕生し、死を迎えた。むしろ、死者の方が数としては、はるかに多いだろう。そうして、伝わっているものもあれば、そうでないものもある。こんなことをしながら、現在の世の中がある。

 

もしかしたら、生き物にとっては、死が普通であり、生が特別なのかもしれない。

 

こんなことも浮かんでくる。特別だからこそ、貴重であり、貴重であるからこそ、大切なのだろう。しかし、時にそういう貴重なものを守るために、死を覚悟しなければいけないこともある。だからこそ、人にとって大事なのは、心であるのかもしれない。また、守るべきものは、己のみではない。むしろ、己のみを守ろうとしただけでは、自分の行く末を見定め、そうして、覚悟した行動もできないのかもしれない。己以外のもの、すなわち、他者がいるからこそ、生き死にもあるのかもしれない。

 

おそらく絶対矛盾的自己同一の中には、こういうことも含まれているのかもしれない。また、わたしの好きな池田晶子が言った、自己を見つめることこそリアル、ということも、似たようなことかもしれない。バーチャル・リアリティとは、案外、自己を見つめていないからこそ、起きることかもしれない。

 

とりとめのない言葉を紡いできたが、結論は出ない。もしかしたら、死ぬ時、あるいは、死んだ後でさえ、出てこないのかもしれない。そうであるからこそ、存在とは無限でもあり、有限でもあるのかもしれない。

 

ただのオヤジでも、時にこういう日記を綴りたいことがある。

 

 



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