お金とは人そのもの 本田健「お金と人生の真実」も絡めて

お金に関する思い出と聞かれれば、わたしは小学生の時が浮かんで来る。高学年頃の正月だったと思う。予想していたよりもお年玉が多く貰え、ほくほくした気分になった。

 

当時は「めぐりあい宇宙(そら)」が上映されていたので、友人たちと大宮の映画館へ行った。もちろん料金はお年玉から支払った。あるいはプラモデルや雑誌やコミックを買い、あっという間になくなってしまった。

 

その頃でもお年玉と言えば、数万を手にする子供がゴロゴロいた。母に言うと「親戚回りをしているからだよ。うちは迷惑になるからしないよ」と告げられ、納得した記憶もある。

 

ほくほくになったわたしのお年玉は5000円。こんな時代のこんな家庭で育ったわたしには画期的なことだった。大金持ち気分になってしまい、すぐになくなってしまったことは想像できるだろう。

 

だがお金を巡る良い思い出は、これが唯一かもしれない。後にも先にもお金でハッピー気分を得たのは、この程度かもしれない。

 

 

お金に関する記憶と言えば、両親のいざこざばかりである。教育費や住宅ローンを巡る言い合い。わたしには兄が二人いるが、長兄は結婚しても子供やマイホームを持たず、次兄は独身のままであり、どちらも賃貸マンションで暮らしている。

 

また明らかに遊興費を巡って両親が言い争っていたこともあった。今でも覚えているが、居間の窓から父が母に向かって「寄越せ、いいから寄越せ」と言い、母が「これはどうしてもダメ!!」と財布か何かを抱え込んでいた。

 

結局、父が奪うように取り上げ、そのままバイクに乗って出掛けた。わたしはすでに慣れていたのか泣きはしなかったが、どうにもできずにぽかんとしていた。

 

まだまだ未熟ながらも、どことなくお金を巡る人間模様に嫌気がさしていた。

 

お金のことを考えるのも、お金の話をするのも、お金儲けのことも、全て嫌いだった。わたしが学生の時は、バブル崩壊直後である。先輩の中には、就職が決まらないといって青ざめていた人もいた。

 

職がなければ生活できない。安心して生きていくことができない。当たり前のことだが、結局はお金のこと。内心では、だからなんなんだよ、と思っていた。

 

わたし自身もとりあえずは就職活動をしてみたが途中で止めてしまい、学生時代で見つけたアルバイトでしばらく生活することになった。

 

だが、お金に関して転機が訪れた。

 



 

学生を終えた後、結婚して派遣社員へ転身し、そして離婚や立ち退き等を経て、個人事業主で働くことになった。当初の数年はなんとかやっていたが、そのうち仕事がなくなった。

 

探しても探してもわたしに依頼が来ることはなく、余裕のない生活にさらに余裕がなくなった。ある時近所のスーパーで買物をし、財布を見れば数円しか入っていなかった。

 

一体どうするか?そんなことを思った。

 

当時ある地域にこだわりがありマンションに住んでいたが、家賃滞納となりマンションを出て実家で暮らすことになった。個人事業主は止めてはいないが、どうしたらお金が巡って来るのだろうかと思った。

 

そうこうしている時、ひょんなことで本田健「お金と人生の真実」に出会った。

 

お金と人生の真実

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当初はハウ・トゥーものだろうと思っていたが、だんだん夢中になって読み進んでいった。

 

本田健「お金と人生の真実」の中では、家庭内でお金のいざこざが多いとお金が嫌いになると述べられている。わたしはまさにそのパターンだった。

 

またお金持ちでもお金に困る人もいる。あるいは借金をしていないと働く意欲が沸かないと話す人もいる。お金を巡る様々な人間模様を税理士の視点から興味深く描いている。

 

お金を得るにはお金に好かれることであり、それには自らお金を好きになる必要がある。自分を嫌っている相手に好意を持つ人はは少ないだろう。お金もまたそのようである。

 

だが好きになっても支配や奴隷になることは勧められていない。お金と友人になること。そして天下の回りものということ。友人になって好きになってそれなりに貯めてから使うことで再びお金が巡って来る。こんなようなことも書かれている。

 

確かに言いたいことは分かる。お金と友人になれればいいなあ、とは思うものの、なかなか進んではできない。今言えるのは、かつてとは違い、お金は天下の回りものだが好きでも嫌いでもないということだ。

 

また嫌いであったが、よくよく見れば執着心があまりなかったかもしれない。冒頭で子供の時のエピソードを語ったが、あっという間に5000円を使ってしまうのは貧乏性とも言えるだろう。

 

 

けれどもそれ以上に執着心がないとも見なせる。むしろ嫌いであるから持ち続けたいと思わず、次第に無頓着に近い感覚となり、執着心も生まれなかったのだろう。

 

そう言えばわたしの知り合いの中には、あっという間にお金を貯められる人がいた。百万円単位を半年程度で貯めてしまい、素直にスゴイなと思った。派遣社員だったわたしと収入が変わらないにも関わらずだ。

 

むろんその人その人で状況が違うため、誰もが百万円単位のお金を半年で貯めることはできないだろう。そうは言っても、貯める人は貯めるし残す人は残す。お金もまた人を見ているのかもしれない。

 

本田健「お金と人生の真実」の中では、お金のことを考えると心理学や哲学の世界にまで至るようなことが触れられている。わたしのような者には、そんなことまで語る資格はないが、要は人そのものの問題が浮かび上がってくるのだろう。

 

先に触れた執着心がまさにそうであり、ある意味お金を物理的に見ることで執着心が湧くのかもしれない。そうなると森鴎外が述べた「かのように」を思い出す。

 

科学の法則などはそこにある「かのように」考えるから成立する。そのように見るからこそ合理的な説明が成り立つ。

 

たとえば飛行機でも飛ぶのが当たり前のように考えられるが、飛ぶ原理がある「かのように」考えるからこそ、飛ぶための道具を作り上げ、実際に飛ばすことができる。

 

しかしあくまで人の世界の中で通じている出来事でもある。もし人以外の世界であれば、飛んでいないのかもしれない。

 

 

わたしは別に神秘的なことを言いたいのではない。よくよく考えれば、人は主観的な生き物である。主観から免れることは決して出来ない。だが人は社会を営む必要があり、秩序も大切なことだ。

 

それには客観が必要であり、人の目でないものと言えば、数字などである。科学は数字によって法則を生み出し、実験をし実証するがあくまである条件下のことである。可能性あるいは確率の世界と言ってもいい。

 

もし条件下以外のことがおきれば、新たな条件設定をし実験をし実証し実践に活かすようにする。結局経験がなければ科学は発展しないのかもしれない。

 

ともあれ、こういう「かのように」の世界があるからこそ、物理的な世界の中で生きられる。では、お金はどうなのだろう?札束がお金なのか?それだけでしかないのか?

 

 

おそらくお金は管理機関が発行し、それがお金であり価値があると認めているからこそ、お金となっている。言い換えれば、人々が交換価値と見なしているからこそ、利用できるのだろう。

 

別にお金でなくても交換価値となり得る。たとえばボールペンが交換価値となれば、ボールペン収集に夢中になる人も出てくるだろう。だがボールペンでは嵩張るだけである。

 

現在のような硬貨と札の方が物理的な利便性が高いのかもしれない。もちろん仮想通貨であれば、ネットの中だけで使用できるので、より利便性は高い。

 

こうして見るとお金もまた「かのように」であるように思う。お金という交換価値がある「かのように」生活し、日々を暮らして行く。人が生み出し、人の世界でしか通用しないものでもあろう。

 

そう言えば、本田健「お金と人生の真実」では「なぜお金は”魔物”になるのか?」という一章がある。わたしは当然魔物になるだろうと思う。なぜなら、人そのもののが魔物にもなり得るからだ。

 

お金というもの。

 

そこには聖人もいれば、魔物もいる。結局人を考えなければお金を理解することもできない。人の欲望に際限はない。