ナナネクで再び巡り会えた 映画 レオン

一昨日(2017年4月17日)、ナナネク(沖津那奈さんナビゲートのAmanekチャンネル)を聞いていると、映画「レオン」の話が出た。オキナナ(沖津那奈)さんが最近観賞した作品であり、有名ながらも、これまで見たことがなかったとのことだ。ラストで大泣きしたとのことで、すでに知っていたわたしには、さもありなん、と思えた。

 

けれども、正直、「レオン」が出てきたことにビックリした。映画にちなんだコメントの後、「レオン」のエンディング・テーマが流れた。わたしの頭にラスト・シーンが浮かび、こんな巡り合わせがあるのか、と思った。

 

「レオン」には、個人的な思い入れがある。この映画を知らなかったら、わたしの人生も変わっていたかもしれない。1994年に公開されたが、当時映画に目覚めていた学生でありながらも、全く知らなかった。

 
 

 
 

後年、ある人から教えられ、レンタルビデオで鑑賞した後、悔しくなった。もちろん、いたく感動もし、教えてくれた人と語り合った。その頃はカーペット清掃のバイトで暮らしていたので、わたしが「クリーナー」のレオンで、その人が種々の問題を抱えるマチルダと、冗談交じりに話した。

 

そう、ある人とは、元妻のことである。「レオン」をきっかけに、より親密になり、一緒になった。生活を共にし始め、最初のわたしの誕生日にプレゼントをくれた。「レオン完全版」のビデオだった。DVDが出始めの頃で、デッキも対応ドライブもなかったため、そうなった。

 

しかし、結局は、築き上げた家庭が崩壊し、忘れてはいけないシコリが残った。元妻に対するものではない。仮に「レオン」がなかったら、あるいは、「レオン」を教えられなかったら、こういうシコリもなかったのでは、と思った。

 
 

 
 

家庭崩壊後、「レオン完全版」のビデオはあったが、わたしは見なかった。映画そのものへの否定からではない。先で述べたシコリへの悔恨であり、懺悔でもある。そうして、そのビデオは、家庭を築いた家から引っ越す時に捨ててしまった。

 

けれども、時の経過と共に、わたしの中でも少しずつ変化が出てきた。今年は節目であり、新しい一歩があると感じている。いや、すでに一歩を踏み出しているのかもしれない。もしくは、再生と回帰がすでに始まっているのかもしれない。

 

そんな時、オキナナさんの口から「レオン」が飛び出した。戸惑いもあったが、エンディング・テーマを聞き、もう一度見たくなった。ナナネク終了後、いつにするか、と思っていたが、配信中のNetflixが浮かんだ。善は急げ、とばかりに、夕食前に観賞した。

 
 

 
 

映画そのものに関しては、文句はない。監督がフランス人のリュック・ベッソンであり、アメリカが舞台でも全体的にヨーロッパの香がする。孤独であったレオンとマチルダが結びつき、それぞれの生き方に彩りが添えられた。レオンが「クリーナー」でもあるので、アクションも多々ある。しかし、物悲しいラブロマンス映画であることも、確かだろう。

 

鑑賞後、以前とほとんど変わらない感想だった。やはり、ラストとエンディングテーマの組み合わせは、素晴らしい。そして、マチルダの「リオ~ン」という叫び声、レオンの「マイ・モネー」という発音、いずれも初めて見た頃から印象に残っているものだ。

 

そうして、再び巡り会えたことに、わたしは喜びを感じた。一種のハードルを乗り越えられたようで、ホッとした。敢えて遠ざけて来たが、またも近づいた。いや、取り戻せた。恥ずかしさに涙腺も緩んだ。これもまた、運命のイタズラなのかもしれない。

 
 

 
 

わたしにとって、3月26日に続き、4月7日も大切である。そうなってから今年で15年目である。

 

一昨日は4月17日。

 

10日後に、こんなことが待っているとは思いもしなかった。これから「レオン」と再び向き合っていく。いや、以前よりも思い入れが強くなっているかもしれない。

 

そして、続けられる限り、ナナネクにも耳を傾けていくつもりだ。

 
 

付録 :

1990年代後半から2010年頃まで、プロバイダ提供の無料ホームページで、「蒼現(そうげん)」というサイトを運営していた。北野武監督作品も取り上げていたが、「レオン」もレビューをアップしていた。以下、字下げや改行などを修正し、参考までにこちらにも掲載しておく。拙文であるが、最後までお読みいただければ、幸いである。

 
 

リュック・ベッソンと初めて出会ったのは、この映画からだった。
上映後、数年経っていたので、正直、悔しさが伴った。
鑑賞後、わたしは、思った。

「封切られた時、映画を観始めていたのに、なんで知らなかったんだ」

しかし、出会った感動も忘れてはいない。

「ヨーロッパとハリウッドが、ほどよくミックスされた良質の映画」

こののち、リュック・ベッソンとは、しばらく付き合うことになる。
彼の映像感覚に、魅了されて行く。

 
 

レオンは、ヒット・マンである。イタリア系マフィアに属し、
優秀な掃除屋である。

ある日のこと。いつものように、ひと仕事終えると、アパートの隣室
に住むマチルダと出会う。マチルダは、孤独である。十二歳というのに、
煙草に手を出し、親からも見放されている。

マチルダが聞く。

 

「人生がつらいのは、子供の時だけ?」
「いいや。いつもさ」

 

同じ時、刑事のスタンが、マチルダの部屋に訪れていた。マチルダの
父親が、100%純粋な麻薬を10%盗んだのではないかというものだった。
父親は、拒絶したが、翌日の昼までに真犯人を見つけるようスタンに脅
される。

翌日、昼になっても、父親は、真犯人を見つけられない。スタンが拳
銃を撃ち込みながら、侵入してくる。その時、マチルダは、部屋にはい
なかった。レオンの使いで、牛乳を買いに行っていた。

戻ってくると、家族は、みな殺されていた。泣きながら、レオンの部
屋にやってくる。騒動をかぎつけていたレオンは、ドア越で隙見をして
いた。マチルダが、懇願する。レオンは迷ったが、静かにドアを開けた。

 

レオンとマチルダの逃避行が始まる。ホテルを転々としているうち、
いつしか心が通じ合うようになる。ヒットマンにとって、女は、魔物で
ある。レオンは、その境界線を破り始めた。ある日、マチルダが、見張
り警官の目を盗み、自宅に戻った。すると、スタンが現れた。マチルダ
が隠れた。

マチルダは、前妻の子供である。姉は、半分だけの血のつながりだが、
弟は、違った。父親や母親や姉のためではなく、その弟のために、復讐
心を覚え、単身、スタンのあとをつけた。

 

だが、あえなくスタンにつかまり、殺されるかけるところ、スタンの
仲間が、彼の右腕が殺されたことを報告する。

犯人は、レオン。
うちひしがれるスタンのいない間、レオンがスタンの事務所からマチ
ルダを救い出す。

スタンは、レオンのボス、トニーの店へ行く。イタリア系ヒットマン
の仕業と告げる。

スタンは、レオンたちのホテルを見つける。そして、部署の総力を挙
げ、レオンたちを捕まえようとする。

追い詰められたレオンたちは、マチルダだけ逃げ出す。通風孔にマチ
ルダを入れると、マチルダが拒否する。けれども、レオンが説得する。

 

「おれたちは、もう孤独じゃないんだ」

 

マチルダが、階下へ降りていく。
乗りこんで来た警官。

レオンは、倒れている警官になりすまし,部屋を抜け出す。単身、外に
出ようと地下へ降りていく。背後にスタンの姿が現れる。拳銃を撃ちこ
まれるレオン。倒れるレオン。しかし、スタンにあるプレゼントを渡す。

手榴弾の安全ピン。
レオンとともに、スタンが弾け飛んだ。

行き場のなくなった、マチルダ。レオンが言ったように、トニーの店に
行くが、一ヶ月毎に金を渡すことを約束され、追い返される。仕方なく、
孤児院に行き、真相を担当官に話す。

マチルダの手には、ひとつの鉢植えがある。孤児院の庭に埋める。それ
は、レオンの形見である。

 

「もう安心よ」
 

マチルダがつぶやいた。

 
 

 
 

エンデイング・テーマに、スティングの歌が使われている。わたしには、
とても印象深く感じられる。力の強さが詞にたくされ、しかし、最後にこ
ういう。

 

“That’s not the shapes of mine head.”
(それは、おれの方法ではない)

 

暴力に対する嫌悪の念が、この映画全体に貫かれている。孤独にならざ
るをえなかったふたりが、禁断と称する領域へ入り、お互いを深く知るよ
うになる。短く、あっけないふたりの生活だったが、それは永遠なる生な
のかもしれない。

マチルダは、レオンの残した植木を埋める。鉢の中ではない。庭という
大地の連なりへである。ようやく安らぎを得たレオン。皮肉にも、レオン
の現実の中では、ほんの一瞬だけだったのかもしれない。

 

そのほんの一瞬に、リュック・ベッソンの特徴があるように思う。リュ
ック・ベッソンの作品は、いくつか鑑賞している。その個別論を語るかど
うかは定かにしていないが、リュック・ベッソンには、ある連なりがある
ように思う。

「最後の闘い」「ニキータ」「サブウェイ」「フィフス・エレメント」。
どれも、“おとことおんな”ということが、深く刻まれている。そこに
リュック・ベッソンの期待と信仰が、潜んでいるのかもしれない。

 

レオンは、海から始まる。大西洋から徐々にニューヨークヘ近づき、
ビル街を経て、小さなトニーの店に行きつく。レオンの生きている環境が、
映像という視覚のみによって、われわれの目の前に現れてくる。

レオンは、特別な世界に生きている。
けれども、それは、われわれと遠く隔たったものではない。
われわれの“隣人”かもしれない。“プロフェッショナル”
と言われる特別な存在も、わたしたちと変わらぬちっぽけな存在なのである。

 

レオンは、生きた。十二分に生きた。悲劇と思えるかもしれないが、
しかし、レオンにとっては、幸せかもしれない。なぜなら、“おんなのた
めに、すべてを賭けて闘え”たのだから。

マチルダは、残されている。マチルダこそ、悲劇ではないのか? 確か
に、そう見えるかもしれない。しかし、マチルダもまた、幸せかもしれな
い。レオンはいない。けれども、マチルダの心には、ずっと生き残る。

マチルダは、生き続ける。しかし、その生の中には、“自分に賭けてくれ
たおとこ”が、いつまでもい続けられる。レオンを殺したのは、マチルダ
であろう。例えレオンが自分で望んだとしても、マチルダがいなければ、
レオンは死ななかった。いや、死んでたとしても、納得はできなかったか
もしれない。

レオンとマチルダ。リュック・ベッソンの“希望”がそこに見え隠れし
ているようである。

 

レオンを見終わった後、悔しさが出たといった。そして、同時に嬉しさ
もあったと言った。

周知の通り、リュック・ベッソンは、フランス人である。ヨーロッパの
土壌から、生まれている。ハリウッドというテレビ的映画に、ヨーロッパ
の香が漂い、程よいエンターテイメント性が感じられる。

レオンが最後に撃たれる場面。おそらく、従来のハリウッドであるなら、
レオンの見てる視線で、カメラを回さないだろう。インパクトの強い、
スタンが発砲するところを、直接撮るだろう。しかし、それをあえて隠し
たところに、こちらにこみ上げる感覚が、溢れでる。

 

能の狂言者、世阿弥は、その著の中で、
「秘すれば、花なり」 と言っている。

すべてを表現すればいいのではない。スキャンダル的にやるだけが、
伝えるのでもない。

隠すということの方が、相手に伝わったりする。
映画は、やはり映像。あくまで見るものである。

しかし、リュック・ベッソンも、この映画が華だったのだろうか?

「フィフス・エレメント」において、この表現を彼は壊してしまった。
破壊に対して、否定的な見解をとるつもりはないが、しかし、その破壊
の部分に、残念に思えるところがある。

わたしの鼻は、ヨーロッパを心地よく感じる。その匂いに、魅了される。
最近のリュック・ベッソンには、正直、期待外れが多い。

いづれにしろ、レオンは、良質の映画であると思う。ハリウッドとヨー
ロッパの合作が、融合文化に育ったいち日本人への、親近感をもたらした
のかもしれない。