合わない人には合わない、感覚的イメージの連鎖 北野武監督作品 TAKESHIS’

北野武監督作品「TAKESHIS’」が公開されたのは、2005年である。今年で干支が一回りし、随分前のことにも感じるが、個人的には転機の年だった。第二次独身時代が始まり、メスの柴犬との暮らしもスタートした。

 

こういうことも関係あるのだろう。「TAKESHIS’」は2003年公開の「座頭市」とは異なり、映画館では見なかった。お決まりのようにレンタルDVDで視聴し、以来長い間振り返ることがなかった。今回二度目の鑑賞となり、初回とは違った感もある。おそらくわたしの心が変わったことが、大きな要因でもあろう。

 

物語はビートたけしと北野が中心である。

 

売れっ子タレントのビートたけしは、その日もテレビ局へ向かった。仲間などと歓談するが、楽屋で自分とソックリの北野と遭遇する。奇妙な感じがしながらも、芝居用の彫り物を入れることにした。そんな中、ビートたけしと北野が夢現のような世界に入り、それぞれの意識が交錯して行く。

 
 

 
 

以上、「TAKESHIS’」の簡単なあらすじである。結論を言ってしまえば、この映画はああだこうだ理屈をこねて、説明するものではない。おそらく感覚が合わない人には、面白味が感じられないだろう。初回の観賞時も同じように思い、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」や寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」などが連想された。

 

たとえば美輪明宏が登場し、「ヨイトマケの唄」を披露している。知る限り、安保闘争の頃に流行った曲で、団塊の世代においてはお馴染みかもしれない。美輪明宏は寺山修司の映画にも出演し、独特の存在感があった。「TAKESHIS’」でもまた、味のある演技をしていた。

 

やはり育った時代の影響は大きいのだろう。北野武監督も、団塊世代の一人であり、出演者ばかりでなく、「TAKESHIS’」全体の雰囲気が時代感覚を思わせる。けれども、意外にまとまった感じもし、むしろ「ツィゴイネルワイゼン」や「書を捨てよ町へ出よう」などの方が、脈絡もなく物語が展開し、より感覚的な映画になっている。

 
 

 
 

また、どうしてもフェリーニの影を感じてしまう。映画の途中、ビートたけしソックリの北野がピエロと出会う。北野はピエロの格好をしながらビートたけしと対面した。自身の姿が反映されていると感じられる。

 

フェリーニの「8 1/2」でも、ピエロが出て来る。記憶している中では、北野と対面するピエロとは違い、主人公の背後で蠢いているだけだった。おそらく主人公の内面の一部を表現したものだろう。しかし、背後でありながらも、要所要所でピエロが登場していた。「TAKESHIS’」で使われたことは、そんなフェリーニへのオマージュとも取れる。

 

さらに、「TAKESHIS’」の中でも、北野武監督自身が描いた絵画が使われている。初めて取り入れたのは「キッズ・リターン」であり、とりわけ「HANA-BI」では、多くの場面で目にすることができる。「アキレスと亀」では、自身の絵画を使ってストーリーを進めたようだ。

 

わたしは、絵を描くことが苦手であるので、あまり生意気なことは言えない。しかし、北野武監督の絵画は、非常に原色が強い。それが映画にも反映されていると思う。もちろん「TAKESHIS’」においてもだ。

 
 

 
 

以上のほか、「TAKESHIS’」で目についたのが、岸本加世子の存在である。ビートたけしに対しても、あるいは、北野においても、彼女が突然現れ、邪魔をする。いじめと言えばそうかもしれないが、どこかで母親のような感じもある。

 

典型的なのが、北野の恋人になった京野ことみと殴り合いを演じる場面だろう。穿った見方かもしれないが、嫁と姑の争いのようにも感じられ、三世帯家族においては、少なくとも内面では同じなことがあるのでは、と思ってしまった。

 

また、個人的には、北野武監督と岸本加世子は、小津さんと杉村春子の関係を連想させる。小津さんは、自身の映画の四番バッターは杉村春子と述べていた。どちらも、下町にいるようなおばさんを演じることで、見ているものに強烈な印象を与える。もしかしたら北野映画の四番バッターは、岸本加世子なのではないかとも思っている。

 
 

 
 

そう言えば、「TAKESHIS’」は、気持ちが落ち込んでいた時の作品と耳にしたことがある。北野武監督の作品が海外では高評価でも、国内では低評価であり、そのギャップに悩んでいたということだ。確かに北野武監督作品は、海外から輸入された感もある。

 

しかし、「HANA-BI」がヴェネチア金獅子賞に選ばれてから、必ずしもそうとは言えないかもしれない。かつてのように海外よりも国内公開の方が遅いということがあるだろうか? 一時期北野武監督作品から離れたとはいえ、「HANA-BI」の快挙以来、クレジットで大手スポンサーの名を目にする。「ソナチネ」の頃を考えれば、大きな飛躍にも思える。

 

また、「TAKESHIS’」は無茶苦茶なようでありながらも、「崩壊」までには至っていないと思う。唐突に入ってくるシーンもあるが、それが意識の象徴とすれば、納得できる。卑近な例であるが、真面目くさった顔で演説している会社の社長が、頭の中では、女の裸を思い描いていることもある。

 
 

 
 

何らかの連想から起きることもあれば、そうでないこともある。意識の分散とも言えるかもしれないが、日常生活の中では、そういうことも経験している人が多いだろう。「TAKESHIS’」の唐突なシーンも、それに似ていると思う。

 

けれども、唐突なようでありながら、すでに登場したシーンであったり、あるいは、映画の中で目にしたキャラクターの映像であったりする。どこかで計算している感もあり、だからこそ「崩壊した映画」とは思えない。これは、「3-4X10月」や「みんな~やってるか!」、あるいは、「監督・ばんざい!」などにも共通していると思う。壊れたと言いながら、実は完全に壊れていないことが、北野武監督の特徴ではないかとも思っている。

 

繰り返すようだが、「TAKESHIS’」は感覚的な映画である。感性などが合わない人には面白味のない作品でもある。わたしは、育った時代の影響もあろうが、見返した時、以前よりも面白く感じられた。もし北野映画の中で訳の分からないものを見たいという人がいれば、「TAKESHIS’」を勧めることだろう。

 

そして、同時に「ソナチネ」や「HANA-BI」、「座頭市」などもオススメする。人には色々な顔があり、一般人であろうと同様である。ましてや表現者であれば、当前であろう。太宰治が「人間失格」のような作品を書きながらも、「走れメロス」のような小説も発表している。ビートたけしと北野の関係と同様であると言ったら、熱烈なファンに怒られるかもしれない。

 
 

 
 

ただし、多面性の中にも共通点はある。北野武監督も同様であり、簡単にいえば、北野流スタイリッシュさであろう。色々な遊びを考え出し、それを映像化しているが、カメラは外から人を捉えるもの、ということを十分把握しているようだ。だからこそ、小津さんと似たようなものも感じられるのだろう。

 

もちろん、「TAKESHIS’」もそういう中に入ることは、言うまでもない。

 

長くなった。正直、こういう映画を言葉にするのは、難しかった。いつも以上に、中身のないレビューとなっているが、最後までお読みいただけたのであれば、誠にうれしい限りである。

 

次回のレビューもまた、不定期更新の予定だ。

 
 

 
 

 



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