シュートに一番の関心 1993年の女子プロレス 猪木とUWFについても

先日Kindle版で1993年の女子プロレス (双葉文庫)を読み終えた。女子プロレスラーのインタビュー集であり、ブル中野や尾崎魔弓あるいはライオネス飛鳥や長与千種等が登場し、少々懐かしさも感じたが、2018年現在ライオネス飛鳥以外はリングに上っている。これだけでも驚きであった。

 

全体的な感想は、Amazonのカスタマーレビューにもあるように、非常に面白かった。かつて存在した全日本女子プロレスがどういう団体であったのか、あるいは、女子プロレスラー同士の確執等が証言のように掲載されている。男子女子に関係なくプロレスファンであれば、大いに興味が持てる内容かもしれない。

 

けれども個人的に最も関心が深かったのが、全日本女子プロレスでは独自ルールのシュート(リアルファイト:真剣勝負)が行われていたということである。しかもタイトル戦でも実施されていたようで、驚きでもあった。

 

わたしは本当にシュートであるのかどうか、自分の目で確かめてみたくなり、Youtubeで検索した。すると1981年2月25日に行われたWWWA世界シングル選手権試合がアップされていた。ジャガー横田が本名の横田利美の時代であり、チャンピオンのジャッキー佐藤へのチャレンジであった。

 

 

上記動画ではロープに振るあるいは場外で戦う等、プロレスでよく見掛けるシーンが出てくる。しかし少し色合いが異なっているのが、フォールのところである。上になっていても下になっていても必死さがあり、通常の体固めとは違った感じだ。

 

1993年の女子プロレス (双葉文庫)の中では「抑え込みルール」として出てくる。もともと全女を運営していた松永兄弟は、柔道やボクシングの経験があり、選手にも異種格闘技戦等を好んでやらせていたようだ。

 

筆者が違って見えたフォールも、柔道やアマチュアレスリングで見られるような「抑え込み」のようでもある。一つの動画だけでは証拠とはならないと言えるが、それでも通常の体固めとは異なり、書籍で素直に語られていたのではないか、と思えるものだ。

 

動画のコメントはかなり少ないが、評価としてみれば芳しくないものがある。その昔、プロレスの形態で真剣勝負をしたら客が喜ばず、ショーのように演出した戦いに変えたら、客が盛り上がったとの言われを耳にしたことがある。ジャッキー佐藤対横田利美のタイトルマッチは、ショー化以前の試合に近い形態であったのかもしれない。

 

全女の場合、ベビーであろうとヒールであろうと、実力者がなっていたとのことで、新人の時等はシュートが当たり前であったとの証言もある。しかもリングを下りた選手同士の確執をベビーやヒールで表現させていたようで、「最狂団体」との言葉も出てきている。もしかすると新日本プロレスやUWFで信じていた一部のものは、すでに女子プロレスの中で表現されていたのかもしれない。

 

書籍を読んで思い出したが、女子レスリングがまだ弱かった時代、全女のプロレスラーがアマレス全日本選手権で優勝したことがある。明らかに覚えているのが豊田真奈美であり、彼女はシュートも強かったようだ。「抑え込みルール」はこういうことにも有効であったのかもしれない。

 

全体的に1993年の女子プロレス (双葉文庫)に対する否定的な見方は持っていない。この書籍を読んで、女子プロレスを応援したくなる自分がいたことは間違いない。

 

けれども残念であったのは、マッハ文洙やマキ上田あるいはミミ萩原等へのインタビューがなかったことだ。「紙のプロレス」等の雑誌記事が下地であり、しかも1993年の対抗戦がキーワードにもなっているので、仕方ない面があるだろう。

 

 

そうは言っても、全日本女子プロレスにも触れるのであれば、できるだけ存命の元レスラーにも取材し、インタビューを取った方がより事実があぶり出されたかもしれない。

 

先で述べたマッハ文洙やマキ上田あるいはミミ萩原は、一時代を築いたレスラーでもあり、子供だったわたしはテレビで見た記憶がある。マッハ文洙は引退後タレントとなり、マキ上田はビューティーペアの一人として人気を博し、ミミ萩原は負け続けながらもチャンピオンになったレスラーである。いずれも有名な女子プロレスラーであり、時代の鏡でもあろう。

 

しかしそれを補うかのようにロッシー小川へのインタビューが掲載されている。唯一の男性であり、全女でマッチメイクも手がけた裏方の一人である。間接ながらも先程の女性たちの活躍した時代があぶり出されている面もあるが、間接であるのが非常に残念でもある。

 

これを考えれば、ダンプ松本や北斗晶等のインタビューがなかったことも非常に悔やまれる。北斗晶に関してはインタービューがありながらも、単行本掲載は認められなかったようだ。こういうこともあるので、上記で述べたことは筆者のわがままでもあろう。

 

また先述しているように、この書籍を読むと女子プロレスを応援したくなる自分がいたことは間違いない。そうは言っても積極的に見るかと言えば、そうではない。

 

肉体を使ったエンターテイメントであり、技の掛け合いは一歩間違えれば大怪我や死に至ることもある。危険な中でのエンターテイメントであり、選ばれた人がやるべきものであることは理解している。

 

しかしシュートに一番の関心があると述べたように、リアルファイトが好きな輩でもある。プロレスであれば格闘技色の強いプロレスが好みであり、セメントマッチも許容範囲に含まれる。

 

これもまた習慣に近いものかもしれない。「風車の理論」や「いつどこででも誰の挑戦でも受ける」あるいは「格闘王」のプロレスで育ったようなものだからだ。典型的な「喋りのアメリカンプロレス」は、あまり好きではない。これだけは仕方ないであろう。

 

けれども繰り返すようだが、これで女子プロレスや男子プロレスを完全否定するものではない。やはり肉体を伴ったエンターテイメント興行に、一定の尊敬を持っていることは確かなことだからだ。

 



 

ところで著者の柳澤健は、上記の書籍以外にも何冊かプロレス関連本を出版している。その中でわたしが購入したものが、完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)1984年のUWF (文春e-book)である。

 

まず「1976年のアントニオ猪木」についてであるが、はっきり言えば猪木を酷評していると言えるだろう。1976年は猪木にとって特別の年であると述べ、特にアリ戦に関して厳しい指摘がしてある。

 

後年厳格なルールのため、いわゆる猪木-アリ状態で戦わざるを得なかったと関係者が述べているが、実は猪木にはパンチが許されていたとのことだ。立ちがることをせず勇気のない猪木とも称していた。

 

かたやアリに対しては、猪木との対戦は真の格闘家を目指したものでなく、あくまでプロレス好きが彼を対戦に駆り立てたような言い回しをしていた。「喋りのアメリカンプロレス」が好きそうなのは、アリのパフォーマンスからも伺えるだろう。

 

けれどもわたしは、猪木-アリ戦をリアルタイムで視聴した。今ではDVDが発売され、簡単に入手できる。ちょうど小学校に上がり立てで、次兄が親日ファンでもあったので、わたしも影響されていた。

 

 

学校から帰宅し、すぐに次兄に「猪木どうなった?」と聞いた覚えがある。諸事情により昼に生放送され、夜には再放送もあり、食事をしながら家族で見た記憶がある。子供ながらにも猪木-アリ状態を目にし、緊張を感じたことは確かだ。

 

独特の緊張感があることは今でも変わらない。色んな論評があったことも知っているが、猪木-アリ戦はショーではなくリアルファイトであったろうと思う。

 

そして後年になってよく見ると、猪木が放っていた蹴りは非常に危険であり、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」スタイルのボクサーにとっては、相当ダメージが深くなっただろう。

 

危険な蹴りとは、いわゆる「皿割り」であり、スライディングしながらも膝を狙っていた。アリがコーナーに詰まった時も、寝ながら膝に蹴りを集中させていた。ヒクソン-船木戦でヒクソンが起き上がる時に見せたような蹴りも放っていた。

 

著者はこの後取り上げる「1984年のUWF」の中で、前田-アンドレ戦について言及し、前田の「皿割り」について危険な蹴りときちんと述べている。そういう視線がありながらも、なぜ猪木-アリ戦では触れなかったのか? 甚だ疑問に感じた。

 

 

一方1984年のUWF (文春e-book)については、実はリアルファイトではなかったことが、テーマのように感じた。雑誌「格闘技通信」が行ったUWFを持ち上げた記事への批判、あるいは、前田日明と異種格闘技戦で対戦したジェラルド・ゴルドーがリハーサルをしていたこと(本人の言葉を引用)等が述べられている。

 

UWF信者で有名であった夢枕獏の発言も使われ、ブーム当時でもちょっとおかしいと思ったがフィーバーに乗ったということ等も書かれている。

 

これについては、わたしも共感することがある。UWFブームの頃はちょうど高校生から大学浪人生の時で、書店へ行けばプロレス雑誌でUWFの記事を必ず立ち読みしていた。レンタルビデオ店でもUWFのビデオを見つければ、必ずと言っていい程借りていた。

 

UWF選手が使っていた蹴りを習得したいと思い、高校生の時は約2年間、近所の公民館で松濤館空手を習った。後で考えれば、全然流派も異なり、蹴り方も違う。ただ単に「真似事にもならない真似」をし、強くなった気分でいたかったのだろう。

 

そういう時にUWFのビデオを見て、どうしてここで行かないのか、どうして返さないのかという思いが出てきたことは確かだ。後年、UWFの影響でサンボを始めた若者が増えたが、アキレス腱固めの逃げ方に誤りがあり、膝を骨折する人も増えたと格闘技雑誌で読んだことがある。

 

通常アキレス腱固めの逃げ方は相手に向かって立ち上がるようだ。ところがUWFでは、クルクル回ってロープエスケープすることがほとんだった。要するにクルクル回ろうとすると、膝が視点となり相手の締める力も加わるため、膝の骨が折れてしまうということだろう。

 

ヒクソン-高田の第2戦目でヒクソンがガードポジションになって足を攻められた際、すっと立ち上がって態勢を入れ替え、マウントポジションから腕ひしぎ十字固めで勝利した。

 

おそらく寝技で足を攻められた場合立ち上がるというのが基本であり、ヒクソンは見事なお手本を示してくれたのかもしれない。相手がUWFの出身者であるということが、皮肉な感じである。

 

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上記以外でもキャメルクラッチや前田-ニールセン戦のこと等が出て来る。要するにUWFの戦いがリアルファイトでなかったことを著者なりに解説したものであり、一時期話題になったミスター高橋(元新日本プロレスレフリー)の暴露本と似たような面がある。

 

ただし初代タイガーマスクこと佐山聡については、持ち上げていると言っていい程賞賛している。読みながら、少し肩入れし過ぎではと思ったことは確かだ。

 

けれどもUWFが一体なんであったのか、1つの見解として読む分には、参考になるかもしれない。それとともに同時代を見ていた者が、自分や歴史を振り返るには適切な書籍であるかもしれない。

 

共感する面があるとすれば、著者もUWFはプロレスと総合格闘技の架け橋のような存在と捉えていることだ。UWFで特に寝技がお披露目されなかったら、後年のPRIDEやDream等の試合に多くの観客が来ることがなかったかもしれない。

 

いわば一種のプロレスがマーシャルアーツとサポーターの接着剤のような役割を果たしたということだ。格闘プロレスという言葉があるが、まさにUWFがそうであったろうと思う。

 

しかし「1984年のUWF」にも書かれているが、UWFスタイルは元々新日本プロレス道場にあったもので、当時からプロレス雑誌でも述べられていた。

 

UWFはプロレスである、ということもブームの時にさえ新日レスラー等が公言していた。よくよく見れば、源流は新日本プロレスにあるともいえ、アントニオ猪木の功罪はこういう点も考慮しなければいけないのかもしれない。

 

1984年のUWF (文春e-book)

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以上、完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)1984年のUWF (文春e-book)について述べてきた。かなり簡略化した言及であり、これですべてを語っているとは言えないし、ほんの一部の見解を述べた程度である。

 

ただし上記2冊を読み終えた後、ふと思ったこともある。仮面のままの猪木、青春時代のUWF。おそらく猪木は最期まで真相を語らず、UWFは若かりし頃の憧れと言える。プロレス云々もあるが、同時代にいた自分を見つめる書籍でもあるかもしれない。

 

最後にもう一点だけ述べたいことがある。

 

著者はなぜアントニオ猪木とUWFを酷評と表現できるようなまでに批判的であるのか? 「1993年の女子プロレス」では、女子プロファンで広田さくらの後援会長であると述べている。そういう人がどうして、言ってしまえばアントニオ猪木とUWFを貶めるようなことをしたのか?

 

以上で述べた3冊とも、著者は前文において、プロレスはエンターテイメントであり、肉体を伴ったショーであると言い切っている。試合結果も前もって決まっていて、結果よりも内容で見せるのがプロレスである、という感じでも述べている。

 

しかしアントニオ猪木もUWFも、自分たちが行ってきたプロレスがショーであるとハッキリ口にしているだろうか? アントニオ猪木は村松友視との共著でプロレスのエンターテイメント性を肯定し、格闘芸術という言葉は公言していると思う。

 

またUWFにおいても会場の盛り上げ方等に力を入れていたことは、生観戦したわたしは実感している。エンターテイメントをどうとらえるか、ということもあるが、猪木もUWFも否定はしないだろう。だがハッキリとショーとは述べていないと思う。

 

この点に批判の源があるのかもしれない。適切ではないかもしれないが、「往生際が悪い」ということだ。

 

これに関しては「1993年の女子プロレス」で感じるところでもある。著者によれば、インタビューした女子プロレスラーたちは、プロレスがショーであることを認めつつも、必死になって自分の肉体を使って表現している。時に危険な目に遭うと知りながらも、自分の肉体を使い、客を喜ばせている。それだけ女子プロレスラーは素晴らしいということだ。

 

インタビューの中でも、空手や柔道上がりの選手にプロレスの「おかしさ」を尋ね、彼女たちが肯定している言葉が出てくる。わたしの記憶では、ジャガー横田だけ少し違った感じがあるが、その他の選手は「おかしさ」については否定していない。

 

こういう「素直さ」が女子プロレスラーにあり、猪木やUWFにはない点でもあろう。もちろんわたしの知る限りであり、すでに言及しているようであれば訂正しなければならない。

 

ただ1つ、高田延彦が「泣き虫」の中でPRIDE以外自分の試合結果を事前に知っていたと述べている。UWF関連でショーに言及したような発言は、この程度ではと思っている。

 

泣き虫 (幻冬舎文庫)

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しかしショーであろうがリアルファイトであろうが、鍛え上げられた肉体を使い、技を出し技を受け、客を魅了しようとすることには、一定の尊敬があっていい。

 

アメリカンプロレスであろうとUFCであろうと、日本のプロレスであろうとRIZINであろうと、リングやオクタゴンの中で「戦いを表現」していることに変わりはない。

 

表現する人々はまさにアスリートであり、プロレスも総合格闘技もスポーツの一種であるのは確かなことだと思っている。

 

 

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