文学崩れの言葉 (一) わたしは痴れ者です

 
 

2005年から数年間、プロバイダ提供のホームページで公開していました。作成自体は、20世紀末頃になります。懐かしくもあり、恥ずかしくもあり、今なら書かないことばかりかもしれません。だったら、載せるな、と思いますが、自己満足なサイトでもコンテンツ充実は大切です。反面教師にでもなれば、と少々おこがましいことを思いながら、ここでも公開することにしました。続きは、折を見ながら、アップしていきます。なお、タイトルは新規で作成したものです。(^o^)

 
 

花 ― 散りゆくことが生の証。

 
 

宮澤賢治。
「心象や時間それ自身の性質として第 四次延長のなかで主張されます(「春と修羅」)」

この人も、興の花を咲かせしか。

 
 

最初の記憶。
雨降り後のきらめくひと雫。

 
 

ソクラテス。
この人の書物は存在しない。この人が書かれた書物が存在する。

ソクラテスが語るのではない。ソクラテスの観方を見ていたプラトンがソクラテスを語る。
知の始まりである。

 
 

無是非有有是非無非有無是非有非無有是非無一足一何故也。

 
 

存在に見受けられるものに、継時性と共時性がある。継時性は、そのもの自体の歴史であり、軌跡によって形作られる経験である。共時性は、そのもの自身の役割であり、その場のあり方にある。

継時性と共時性が関わりあうことで、あるものが成り立ち、さらにその成り立ちは、継時性と共時性を築くあるものに関わり、さらにその関わりによって、ある関係性が生まれ、現存在が成り立っている。

弁証法的あり方のひとつの見方である。

 
 

「世界- 内- 存在」は、「世界- 外-存在」でもある。

 
 

多元二元一元何然之境地也。

 
 

9 .11 ドキュメント。
飯の種?

 
 

悟性。
決 して境地ではない。

因果律。
われわれの免れざるもの。

言葉。
転移を伴う心の中の怪物である。

 
 

二 十一世紀を疾駆する書物。
「この死無を見よ」

 
 

日常。
厳しさと同時に優しさがある。

非日常。
楽しさもあるが哀しさもある。

非日常非非日常。
いまだ明らかならざる世界。

 
 

「人間は考える葦である」

社会に出れば、

「人間は考える足である」

 
 

「有」
共通していると思っている感覚の悪魔。

「無」
共通していないと思っている感覚の魔物。

「有無」
免れざる共通感覚。

 
 

純文学― おれの文学「順文学」

 
 

現実というものに、どれだけ確実性があるかは定かでない。現実と思うことは、われわれの認識作用の産物であり、われわれが介在する力による。言い換えれば、われわれの“ 生きんとする意志” から発せられた“ 原因結果の自動調節作用”がもたらしたことである。

 
 

大事なのは、われわれが感じること。その感覚からわれわれは、現実感や疎外感を作り出すのかもしれない。
危うい中に生を営むのが、われわれであり、だからこそ、“ 終局”が待ち構えているのかもしれない。

 
 

決定論― 自分を説得する生の力。

 
 

当たり前であることが、当たり前であると感じることを、自明性と名づけるならば、その当たり前はどこから来るのか。当たり前と思っていることが、当たり前と思えなくなったら、自明性の喪失といわれる。当たり前もまた自明性も、様々な解釈がある。むしろ、その当たり前や自明性よりも、解釈の方に、目を向けた方が、了解しやすいのかもしれない。

 
 

これも一種の解釈になるが、解釈の解釈論も必要で、さらに、解釈の解釈の解釈論も、必要になるのか。箱の中にさらに箱があってさらにその中にも箱があって、ずっとずっと見ていったら、わかんなくなった、なんて思いに、いずれ到達するのかもしれない。

 
 

迷い ー 特権ではない。
諭す ー 己のみの特権。
悟り ー 分からん。

合理 ー 人間の生命線
非合理 ー 人間と自然の生命線

家 族 ー 他人の始まり

 
 

天 国が恍惚ならば、地獄が不安であり、現世が喜怒哀楽である。
言い換えるなら、神の世が天国であり、狂人の世が地獄であり、常人の世が現世である。

まこと等、どこぞにあるか。

 
 

大海はそこにある。

名誉のある人が言えば、含蓄がある。
病歴のある人が言えば、妄想である。
海辺の人が言えば、現実である。

大海はどこにでもある?

 
 

* 原文、縦書き

 
 

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