もう4年、されど4年 東日本大震災

本日が何の日であるのかは、多くの人がご存じであろう。本記事タイトルからも分かるように、4年前の今日、東日本大震災が発生した。記憶では、公式な地震発生時間が、14時46分。日本は世界でも有名な地震国であり、わたしも関東に生まれ育った身であるので、幼い頃から地震を経験している。慣れ、というとおこがましいが、どういうものであるのかは、体感で得ている。しかし、4年前のあの揺れは、今でも思い出す。

 

たまたま学生時代、漁船に乗船する機会に恵まれ、しかも、作業途中、白波が立ったとのことで、その中を引き返す体験をした。海水が糊のようになり、上下に激しく揺れ、船の上で容易に立っていられない状態だった。当然、陸育ちで、しかも都会暮らしの身であるため、漁船には慣れていない。船酔いした。これに似た揺れが、まさに東日本大震災のものだった。

 

あの日は、前日徹夜をしたので、地震発生時間には寝ていた。徐々に床が揺れてくることを感じ、大きくなった頃、これはおかしい、と飛び起きた。そうして、生まれて初めて玄関まで走ろうとし、途中で揺れが小さくなったので、立ち止まった。ふと後ろを見ると、飼い犬の姿があり、わたしの後を追いかけて来たようだ。正直、ホッとし、再び床についたが、起きてからは、地震関連のニュースサイトにアクセスし、以後、仕事どころではなくなった。日々事態が進行し、しかも、住んでいる地域ばかりが気になったのではない。

 

わたしが「田舎」と呼び、幼い頃から親しみを込めていた原町が、ニュースの話題に上っていた。津波の被害はもちろん、それ以外のことでも、日本ばかりでなく、海外でも取り上げられていた。原町とは、かつての原町市であり、現在の南相馬市原町区である。母の出身地であり、多少なりとも、地域の光景を知っている。事態が悪化する度に、いたたまれない気持ちになった。この頃の思いは、別なところでも書いている。おそらくそちらの方が、文章がめちゃくちゃでも、当時の気持ちが素直に出ているかもしれない。

 

 

繰り返すようだが、あれから4年が経った。今年(2015年)は、女子サッカーのワールドカップがある。2011年大会では、多くの日本人が熱狂したことだろう。今年も期待をしながら、鑑賞したいと思っている。けれども、4年が経ったとはいえ、まだまだ震災の爪痕は残っている。色々な問題があるにせよ、大きな体験をした記憶は、表面から消えたように見えても、心の奥深くでは、拭いようがないであろう。共存できるか否かが大事であり、心の平静を保つ上でも、非常に重要なことのように思う。

 

かく言うわたしは、4年前、マンションで一人暮らしであったが、今は、母と共に、実家で暮らしている。東日本大震災が発生した頃、実家に戻るようになるとは思ってもいなかった。けれども、何が起きるか分からないのが、この世の中でもあろう。一寸先は闇、と言うが、日常生活においても当てはまる。特別なことをしなくても、何らかの事が起きたり、あるいは、降りかかって来ることもある。そうであるからこそ、哀しみもあり、喜びもあり、そうして、淡々と時が流れていくのが、人の世なのかもしれない。

 

先でも述べたように、東日本大震災発生以後、しばらく仕事ができず、イライラした自分がいた。なんとかできることはないか、とインターネットで情報収集に精を出していた。しかし、何かをなそうとしても、結局は、何もできなかった。そうして、ふと思ったことがある。今の自分でできることは、たいしたことはない、それよりも、できるだけ自分の日常に戻るのが、大事だ。こうして、再び仕事に取り掛かることができた。

 

しかし、そうは言いながらも、時折「田舎」を思い出し、特に常磐線の窓外の風景は、わたしにとっての日本の原風景のようにもなっている。震災から4年が経ったとは言え、目にできない場所があることもまた、確かである。震災の時もそうだったが、今でも、「方丈記」の冒頭部分が、時々浮かんで来る。若い時分に読み、いたく感動し、好きな古典の一つでもあるが、震災を機に、ますます感慨深い作品のように思った。

 

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。 (青空文庫 - 方丈記

 

これからも、時が淡々と流れ、わたしの身辺が変わったとしても、おそらく東日本大震災でのことを、忘れたくても忘れることはできないであろう。