我思うゆえに我日本なり

今日は、犬の散歩が出来た。台風一過、さわやかな秋晴れの下、と言いたいが、仕事柄、夜間にしか散歩をしない。もっとも、自由業に属するので、いつでも散歩に行けるが、日中は、自宅でパソコンとにらめっこをしている、在宅労働者である。おそらく世間では通用せず、一体何をしているのか、と思われても仕方ない。まかり間違えば、引き籠もりと思われ、現に身内の中には、ほとんどそう思っている者もいる。しかし、人がどう思おうと、正直、勝手である。オレには、オレの意思がある。そう自分では、思っている。

 

だからと言って、身勝手ばかりをするつもりはない。他者を慮る必要があれば、そうするし、協力だってする。それが日本人として生まれたオレだ、なんて言ったら、相当曲解する人もいることだろう。けれども、人に対し、そう思うのであれば、そう思っている自分を問うてみることが、まず先でもあろう。もちろん、わたし自身にも当てはまる。 結局、人は主観から免れられないのだから、何かを見ているとは、ほかならぬ自分の視点でしかない。そうであるからこそ、他人をも尊重できるのであろう。しかも、その自分は、自分でありながらも、訳のわからない自分でもある。そういう訳が分からないながらも、どこかで自分を見ている自分もいる。決して自分の姿をそのままの姿で見れないとは、その通りであろう。

 
 

けれども、そういう自分というものを認識するのも、何らかの言葉になり、その言葉と言えば、わたしの場合、日本語である。生まれてから、コツコツ身に付け、そうして、骨身にしみている。そうであるからこそ、必然的に日本が主語となり、自分が日本人であるという意識も芽生える。仮に日本語がほかの言語であれば、その言語を主とし、自分を認識していたことだろう。そうは言っても、もしかしたら、近代以降の日本人というのは、どこかで、そういう感覚が薄れているのかもしれない。とりわけ、1945年8月15日を境に、積極的に自分たちの「主語」を忘れているのかもしれない。それはもしかしたら、生存を考えてのことなのかもしれないが、これからは、その生存も危ぶまれるかもしれない。むしろ、生存するのであれば、自分たちの「主語」を取り戻すことが、大事であるのかもしれない。

 

自分は、計りしれないものであり、わたしの好きな池田晶子ではないが、永遠の謎であり、有限でありながらも、無限をも備えているのかもしれない。そうだからこそ、歴史などを鑑みることで、己の立つ位置を弁えられるようにも思う。我思うゆえに我あり、とは有名なデカルトの言葉である。わたしは、拙いながらも、それを文字ってみたい。「我思うゆえに我日本なり」こんなこと言ったら、また曲解されるかもしれないが、これこそ、公正で中立で中道であり、日本語が骨身にしみていれば、日本が主体となってしまうのは、当たり前のことであろう。ともあれ、冒頭とは話が大分逸れてしまったようだが、今日は、犬の散歩ができた。まだまだわたしも犬も、元気である。そうして、いつも思うことは、生きることも、そして、死ぬことも、実に不思議なことである。

 

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