神社への散歩

時折、犬と散歩に出かけると、近所の神社を訪れる。田島氷川神社と言い、中浦和駅の近くだ。犬の散歩は、概ね22時過ぎで、人があまりいない時間帯を選んでいる。そうであっても、神社へ行く時は、人がさらにいない土日のどちらかにしている。地元の神社なので、本殿と言っても、小さなものだ。毎年春になると、田島ノ獅子舞が行われ、埼玉では、有名な伝統行事のようだ。もっとも、わたし自身、田島氷川神社には、小さい頃にも行ったことがあるが、田島ノ獅子舞を一度も見たことはない。小学6年の時、同じ旧浦和市内から越して来たとはいえ、やはり、埼玉県民らしく、いや、南埼玉県民らしく、地元意識が薄いだろう。(^o^)

 

ともあれ、犬の散歩のついでに、神社へ行くと、必ず「二礼二拍一礼」のお参りをしている。10年以上前に亡くなった祖父が日本神道だったからといって、わたし自身もそうである、という訳ではない。それでも、どこか神道に親しみがあるのは確かだ。もっとも、日本人に馴染みの深い、神道、あるいは、仏教も、宗教とは言えない面があるかもしれない。神道の場合、カミガミの教えを信じる、というよりは、カミガミを感じることが大事であり、自然そのものの比喩が、カミガミのようにも思う。また、仏教の場合、己の中に、仏性を見いだす傾向があり、仏性とは、絶対的な神ではなく、己そのもののようにも感じる。いわば自分で自分と向き合うことが、大事な点なのだろう。

 

しかし、神道にも仏教にも、当然、色々な考え方があり、しかも、わたしは、専門家ではないので、浅はかな知識、あるいは、考えであり、別な見解があることも、当たり前であろう。そうは言っても、神社へ行くと、心が落ち着くことは確かで、鳥居と本殿と杉林の組み合わせが、調和を醸し出しているように感じる。鎮守の杜、とは言い得て妙である。そう言えば、今までの自分を振り返ると、大抵、自宅近くに神社があったようにも思う。たとえば、小さい頃は、中尾神社があり、今でも「アリジゴク」が多かったことを覚えている。あるいは、親元を離れ、浦和区に住んでいた時は、調神社によく行っていた。もっとも、調神社は、浦和駅からも歩ける距離にあり、また、実家からでも、自転車で行けるので、学生時代などでも、時折訪れていた。調神社の場合、狛犬ではなく、兎が建立され、これがユニークな点である。

 



 
また、埼玉県や東京東部などには、氷川神社が多くある。一説によれば、氷川神社は、出雲にも多く、関連性があるとされている。確かに、氷川神社の祭神には、出雲神話で有名なカミサマが多いかもしれない。調神社もそうであり、先の田島氷川神社もそうである。あるいは、武蔵一宮と言われた大宮氷川神社にも、出雲神話のカミサマが祭られている。これら神社に共通しているのは、素戔嗚尊であり、荒ぶるカミでありながらも、優しい性格もあり、実に人間らしいカミである。

 

ところで、最近、「古事記」を読む人が増えているだ。主婦などが、自主的に集まって読書会のようなことをしたり、あるいは、講演会などへ出向いているようだ。さらに、ついこの前まで知らなかったが、浅野温子よみ語りというものがあり、神社などを舞台に、女優の浅野温子が「古事記」を読み聞かせるようだ。数年前から実施され、神社で行えば、非常に臨場感があるだろう。もっとも、神社ばかりでなく、世界遺産や各地の名所などでも開催するようで、見ている側も、イメージを膨らませやすいかもしれない。実は、わたしも、「古事記」を何度か読んだことがある。角川文庫のもので、学生時代に購入し、今でも持っている。最近は、本から離れてしまい、自分でも、仕方ない奴だ、と思っているが、ようやく自分なりのペースができてきたので、本をゆっくり読む時間を作りたい、と思っている。

 

また、「古事記」ばかりでなく、「日本書紀」も、合わせて読んでみたい。それらを紐解くことで、日本人である自分を見つめられるとも考えられる。しかし、わたしは、決してそういうことに反対ではなく、むしろ、賛同する方だが、もう一つ、大事なことは、そういう自分を見つめる自分もまたいる、ということだ。そうなると、一体、自分とは何なのか、という疑問が湧き、少なくとも、プロパティを背負う自分とそうでない自分の関係が重要では、とも思っている。こういう点になると、近代日本の問題とも絡んで来るかもしれないが、知る限り、それに対する一定の回答をしているのが、西田幾多郞と池田晶子だ。しかし、これについてもまた、異なる見解を持っている人がいることも、当たり前である。

 

いずれにせよ、神社へ行くと、心が落ち着くことは確かだ。仕事などに関係なく、時に「頭(こうべ)を垂れること」も、大切なように思う。