オヤジの辞書 第一弾

最近まで運営していた「文系の書棚」というサイトに掲載していたものです。おそらく誰も知らないサイトで、誰も読んでいない、自己満足のみの戯言ですが、こちらに再掲載したいと思います。もっとも、このブログ自体、誰が読んでいるんだ?、という感じですが、シリーズモノにしているので、今後も続けられれば、と思っています。本日は、そんな下らない戯言シリーズの第一弾です。よろしくお願いします。

 
 

孤独死
よくよく考えれば、変である。死ぬ時は、一人なので、孤独に決まっている。要するには、独身死ということか?けれども、無縁であったとしても、私は私であり、それに変わりないのであれば、いわゆる孤独死もまた、悲観すべきものではない

 

違う
人間だけが違っていると思っているのは、人間だけではないのか?それを証明ではなく、説明しているのは、人間が生み出した科学に過ぎないのだから。

 

揺れる
ヴィトゲンシュタインは、大地が揺れるのは、大地が揺れているのか、それとも、自分が揺れているのか、という問い掛けをしていたようだ。地球に詳しい人なら、大地というかもしれません。けれど、それはあくまで人間の生み出した、客観という知の説明から来ていることである。仮に、それがそうだとしたら、なぜそんなことがあるのか? 文系人間のバカさ加減とは、こういうことなのだろう。(^O^)

 

哀悼
死を悼む。それはあたり前のことである。しかし、かつて、墓石屋のホームページを作成し、葬式の豆知識、というコンテンツを作ったら、依頼者から死に豆知識はふさわしくない、と注意された。墓石屋から頼まれて、自分も商売しているくせに、と思い、これもまた、矛盾した死への対応である。 死は分からない、分からないからこそ、恐れ、そうして、死を悼む。悲しむ。死者を葬送する。けれど、そんな殊勝な心がけを持ちながら、死体を平気で焼き、墓の中に埋葬する。 やっぱり、生きているということは、不思議なもので、変なものだ。もちろん、死ぬこともそうであり、なんだかんだで、人間が変なのだろう。 それで、終いと思いながらも、また何かを思うことが出て来る。これなんだろうな・・・。

 



 

アイデンティティー
オレは、鳩ヶ谷で生まれ、浦和で育ち、そのままさいたま市に住んでいる。桜区の住人であり、余程の事がない限り、この地区を出ようとは思わない。 けど、だから何なんだ?

オレは、日本で生まれ、日本で育ち、日本語を母国語にしている。どうしたって、日本語の方が、理解しやすい。だって、生まれた時から、その環境にあり、それは、身に付いた習慣のようなものだ。オレは、極東の日本の埼玉の鳩ヶ谷で生まれ、浦和で育ち、そのままさいたま市に住み、桜区の住人である。日本語を母国語とし、英語を少し理解するが、言葉の源は、日本語である。だから?

結局、それらは、プロパティ。データベースの属性みたいなもんさ。 だからね、それでね、人格まで判断されちゃね、困るやね。そうは言っても、傍から見たら、プロパティがアイデンティでないと、認識できないんだろうね。こう言っているオレも、他人を属性から見てしまうことがあるのも、否定しない。

もしそれがなかったら?

複数の”わたし”ばかりで、訳分からなくなる。万人の万人による闘争とは、まさにそれから生まれてたりしてね。いや、”わたし”にこだわりすぎるからか?プロパティはあるようでなく、ないようである。オレが日本で生まれてなきゃ、もっと別なプロパティだったでしょ。それも、当たり前であり、当たり前だから、面白いのかもね。

けれど、現実という中で、肉体を持って生きるには、アイデンティティーを尊重せざるを得ないこともまた、当たり前と感じている。 (^O^)(^O^)(^O^)

 

都合
「世の中言葉じゃない」 都合が悪くなると出て来る言葉。だったら、そんな言葉口にするなよ、とつい思ってしまうが、言葉じゃない、という言葉を発している。 仮に、そんな言葉を発しなくても、頭では何かしら言葉が出ているのかもしれない。「灯台下暗しでも、もっと自分を見るようにしろ!!」 と言ったら、横暴になるんだろうなあ。やっぱり、都合次第だね、評価なんて。(^O^)

 

嫉妬
これほど馬鹿げながらも、これほど良くあるものはない。これのおかげで、会社をクビになったり、家庭が壊れたり、友人や知人を失った人もいるのだろう。そういう時は、自分ではなく、まず他人を責める。

でも、ちょっと待てよ。本当に悪いのは、相手なのか、自分なのか? いや、それも待てよ。本当とは一体、何なのだろう? よくよく見れば、人にこれがあるなら、自分にもこれがある。人から受けたくないなら、まずは自分から止めること。

今から約200年前、キェルケゴールが、負け惜しみのことを言っていたが、嫉妬と同類のように思う。自分の足りなさを心の奥で認めながら、素直になれないのが、原因なのかもしれない。

ああ、嫌なこったい。

けどね、これでね、周囲から人がいなくなってもね、大丈夫だよ。なぜなら、決して逃げないのは、自分なんだから。 やっぱり、この逃げない自分というものも、何とも不思議なものであり、当たり前でありながらも、そうであるからこそ、不思議なのだろう。これって、脳なのかね? もしそうなら、これが脳であると思っている脳があるというのも、不思議だ。

こんなこと思っていると、嫉妬なんてのも、くだらなくなるやね。 いや、もっとくだらないのは、これを書いている、オレ自身だな。

 

子供
出来ちゃえば、くっつき、場合によっては、邪険にされる。 大人が上から目線でいろいろ言うが、子供の疑問は、時に、鋭く、怖さもあるのかもしれない。

たとえば、 「なぜ、生きてるの?」 と尋ねられ、一昔前であれば、コウノトリで済ませたろう。コウノトリは、一種の知恵のような気もするが、それは生まれた過程の比喩にしかすぎない。なぜ、に明確な答えを出しているのは、残念ながら、宗教しかないのだろう。だからと言って、オレは、何か教義めいたものを信じるのは好きではない。

そうはいいながらも、信じるという心があることも事実であり、宗教を持たないが、宗教心は持っている、というのが、実際のところだろう。かつて子供は、カミサマの贈りものとして、独特の存在感を醸して出していたようだ。

これは、民俗学の中で、語られているようだが、道端の地蔵が、子供のような顔をしているのも、こういうことから来ているのかもしれない。 案外、子供というものは、生意気だけど、鋭い突っ込みをし、よく分からない存在なので、崇めてた方が得策だ、と大人の悪知恵から、諸々の扱い方をされて来たのかもしれない。

そうは言いながらも、大人というものもまた、子供の時があり、成長するにつれ、どんどん変わっていくのは、どうもなんだか、やはり、奇妙なものである。 大人が子供を教育する。 なるほど、それが可能なのは、”社会人”としての振る舞いを伝えるのみだろう。あるいは、”会社人”と言い換えた方が良いかもしれない。 大事なことは、それにしか過ぎない、ということだ。

けれど、悲しいかな、理解できる奴は理解でき、できない奴はできないものだ。 最後は、自分で理解する。そのために、考える。 ああ、オレもまた、醜い顔の祖やアッコ嬢の手の平の上で踊っている存在にしか過ぎないのね。(^O^)

 

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