年が明けてから、二ヶ月が過ぎようとしている。来月下旬ともなれば、桜の開花予想がなされ、見頃時期などがテレビで放映される。もっとも、テレビを見なくなってから久しくなるので、わたしの場合、ニュースサイトからである。
否が応でも目に入る。
日記・創作・私見等の集い
年が明けてから、二ヶ月が過ぎようとしている。来月下旬ともなれば、桜の開花予想がなされ、見頃時期などがテレビで放映される。もっとも、テレビを見なくなってから久しくなるので、わたしの場合、ニュースサイトからである。
否が応でも目に入る。
太宰治が玉川上水で身投げをしてから、約70年の月日が経っている。よくよく見れば、彼は大東亜戦争前に育った人間であり、戦後育ちとは異なった環境で作家として認められた。けれども、21世紀になった今でも、太宰治の力は健在であるように思う。
たとえば、太宰と言えば、「人間失格」をイメージする人が多いだろう。主人公である大庭葉蔵の手記として描かれ、人の心のマイナス面をこれでもかこれでもか、と書き連ねている。けれども、わたしが見るところ、冒頭部分で語り尽くされているように思う。一語で表わせば、「恥」である。おそらく今の人たちの中にも、こういう「恥」を感じながら生活している人がいるだろう。「人間失格」は、文庫版の累計で、600万部を越えているという。もちろん、これは21世紀の現在をも含めた数である。日本を代表するベストセラー作家の作品と言ってもいいだろう。
本日で4月も終わりである。今年(2015年)も3分の1が過ぎようとしている。いつものことだが、月日は実に速い。わたしも、40半ば近くのオヤジであり、とっととくたばってしまうのでは、などと暦の速さを感じる度に思ってしまう。けれども、まだまだやり足りないことがあり、まだまだくたばれない、というのが本音である。
時にモヤモヤッとした感覚に囚われる。かつて「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、この世を去った有名な作家がいたが、そんな大それたものではない。本当にモヤモヤッとしたものだ。霧に包まれているのでもない。あるいは、暗闇に閉ざされているのでもない。
そこにいるとは分かっていながらも、どこか遠くを見つめているような、そんな感覚である。おそらく先の「ぼんやりとした不安」の「ぼんやり」は同じでも、「不安」ではない。心配でもなければ、憂鬱でもない。基点も定点もない、どこか浮ついた感覚でもある。
今日(2015年4月23日)は、非常に暖かだった。在宅の身でありながらも、汗ばむような陽気であり、一日窓を開けていた。実は、これを書いている最中でも、向こうの窓は少し開いている。それでも、寒いということもなく、いよいよ春が到来する季節でもある。
けれども、そうだからだろうか?